養老孟司の想定を超えた「落合陽一」の考え方

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

私の封印を解く想定外の著作

[レビュアー] 養老孟司(解剖学者)

落合陽一による著書『半歩先を読む思考法』が刊行。将来への展望を開くために必要な思考プロセスを明かした本作について、解剖学者の養老孟司さんが寄せた書評を紹介する。

 ***


落合陽一 (C)Kentaro Miyazaki

養老孟司・評「私の封印を解く想定外の著作」

 八十歳を超える年齢まで生き延びてくる間、世間で起こる出来事の方向はほぼ予想がつくと思っていたし、自分の人生で想定外という事件が起こったことはごく稀だった。ただしそういう事件が起こると、自分の人生と考え方が決定的に変ってしまうのが常だった。

 落合陽一の著作がまさに想定外で、読むと自分が歳をとった、まさに時代遅れだと確信する結果になる。数年前に学生から「養老さんは死んだと思ってました」といわれたときは、いわば想定内だから、別に何とも思わなかった。

 本書の性格だが、タイトルだけから想像するとノウハウ本と錯覚する人もあるかもしれない。とんでもない、むしろほとんど現代詩ではないか、と私は感じた。ただし私の「詩」の概念はおそらく一般性がないと思う。本書は理屈や哲学を説くのではなく、日々の活動と折に触れての感慨を記しているだけだから、読者に衝撃を与えるのは、表現そのものである。その意味では表現の芸術としかいいようがなく、だから「詩」なのである。

 最初の部分は十年続けたTwitterをやめるという話で、そもそも私はTwitterなんてやったことがないし、やろうと思ったこともない。そんな老人にTwitterをやめる話題が内容的にピンと来るはずがない。それでもつられて読んでしまうのは、言葉遣いそのものに違和感がないからである。言葉の持つ文化的伝統のありがたさというべきか。著者と私の年齢差はほぼ半世紀、孫の作文を爺さんが論評しているようなもので、なるほどこれが高齢化社会の実情か、と妙なところで感動してしまった。

 いわゆる理科的な思考に慣れると、心の中にある情緒的な部分をどう処理するかという課題が残る。今朝は手元に届いた「自註現代俳句シリーズ」『尾池和夫集』(俳人協会)を見ていたので、それを痛感する。尾池さんは地球科学者で元京大総長である。そういえば、東大総長だった物理学者の有馬朗人も俳句好きで、何度か「俳句をやらないかね」と勧められた覚えがある。落合陽一は端から詩を書いているわけだから、とりあえず俳句は詠まないで済むと思う。

 落合の表現で私が大きな衝撃を受けたのはデジタル・ネイチュアである。デジタル・ネイチュアは落合の研究室の名前だということを本書で知った。類似の表現に「質量のある自然」と「質量のない自然」がある。デカルトがこう書いてもよかったわけで、どちらの表現も本書に出てくるが、こうした表現はAIの急激な進展という時代背景もあろうが、落合の生き方や考え方から必然として発生したもので、頭の中で言葉をいじっているうちにたまたまそうなったというようなものではない。「関係のないものどうしを繋ぐ」というような表現もあった。創造とはそれをいう。かつてそう述べた人もあったと思う。

 この書評依頼を受ける直前に、NHKの子ども向け番組で、著者と対談する機会があった。子どもの質問に答えた後、二人で話すということだったが、何を話したのか、内容の記憶がほとんどない。覚えているのは、「質量のない自然ですね」という発言と、「急いでいたのでパジャマのままで出てきた」という著者の言だけである。

「質量のない自然」という表現はいわば「質量のある自然」を扱うことが「科学」だという私の思い込みを訂正してくれた。NHKで「脳と心」という番組に参加した時の前提には、脳と心というデカルト式の切断は意識されていたが、それを「質量のない自然」という表現で切るところまでには思い至っていなかった。当時それに思い当っていれば、じつにさまざまな面で違う表現が可能だったのに、といまさらながら思う。心もAIも「質量のない自然」として一括されうる。

 書評で自分のことを書いては申し訳ないが、私自身は自然と人工を対比させて考える癖があったから、その両者を「繋がれて」しまうと閉口する。しかし繋いでみると、頭の中にあった問題が整理されて、まったく新しい地平が見えてくるような気がしている。森田真生『計算する生命』(新潮社)を想起した。4-2=2 なら問題はないが 2-4=? というところから負数が発生する。そこからさらに虚数が発生することになるが、計算というアルゴリズムはそれを使っている人間には思いもよらぬ世界を拓いてしまうことがある。デジタル世界がまさしくそれだ、落合の本を読みながら私の脳ミソはデジタルとようやく妥協した。

 本書には「社会」という表現が多出する。若い世代にとっては、社会というものへの実在感は強いらしいなあ、と感じる。ソーシャル・メディアという表現があることを思えば、それで当然であろう。SNSは常に自分以外の人を具体的に意識しなければならない活動だからである。私自身は昭和二十年八月以来、社会について考えることをいわば封印してしまった。他人の考えなど、知ったことではない。落合のおかげか、その封印がなぜか解けかけて、考えることが増えて困っている。縁側でネコの背中をなでながら、独りでブツブツ言っていれば済むと思っていたのに。

(ようろう・たけし 解剖学者)

新潮社 波
2021年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク