落語家・林家正蔵が悩みに悩んで選んだ好きな文庫3選

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罪つくりな新潮文庫

[レビュアー] 林家正蔵(落語家)

落語家の林家正蔵さんが、悩みに悩んで選んだ新潮文庫3冊を紹介してくれた。

林家正蔵・評「罪つくりな新潮文庫」

 この原稿の御依頼を頂いた時は、嬉しくもあり、有難くもあり、戸惑いもあり、とはいえ少々面倒なので、困ってしまった。そりゃそうでしょう。新潮文庫の中から好きな本を三冊だけ選ぶだなんて。

 一冊なら、儘よ、これだ、で決めてしまうし、十冊となればダラダラと、いろんなジャンルからチョイスもできる。三冊とはなんとも選者泣かせだし、読者諸氏には、きっとどの本を並べたかで、こいつはどんなセンスをしているのか、お里が知れてしまう。

 かくいう私も実際他の人が選んだものには、本に限らず、映画・ジャズのCD・旨いラーメンに至るまで、つい茶々を入れてしまう。ひねくれ者だ。しかし、待てよと留まったのは、今まで私は新潮文庫を通してどんな本に出会い、心揺れ、ときめき、知的快楽や感動を貰ったことか、改めて確かめたくなったからだ。そこでこうして筆をとった。

 それでも多い。気が遠くなるほどのタイトルを前にして、ふと思いついたのだが、以前より仲良くして頂いている担当のT氏にチョイスしてもらい、まず二十冊に絞ってもらった。氏曰く、私の読書傾向を探っての勘を頼りの作業とのことだったが、見事に的中。あら懐かしや、そうそうコレコレ。記憶の中に埋もれてしまった名作を見事に掘り出して頂きました。少々枕が長くなりましたが、本題に入ることに致します。

 宮部作品との出会いは、山本周五郎賞受賞作『火車』からだ。やられました、ガツーンと。おいおい犯人が来るぞ! ハイ、おしまい。エーッ。お見事。こんなミステリー読んだことがない、凄い作家に出会った、という胸のざわつきは未だに忘れがたい。それ以来宮部ワールドの虜となる。ミステリーでも、いわゆる時代物は、江戸噺を飯の種としている商売柄、お勉強のつもりで己の腹に、お江戸の街・人・風俗・食べものを納めてみようと本を手にするのだが、ついつい作者のおりなす物語にひきこまれ、気がつけばお勉強の間もなく、満足して読了してしまっている。『本所深川ふしぎ草紙』は吉川英治文学新人賞の受賞作でもあり、噺家の本好きの間では、ゆるぎない名作といわれているが、愛しさでは本作『初ものがたり』が上回ってしまった。

 稲荷寿司屋台の親父の正体は? 梶屋の勝蔵との因縁は? 日道坊やはどうなるのか? 霊視の力は本物か?――等々のモヤモヤが山積しているのだが、それをさっぴいても、おもしろい。また登場する江戸の味覚の数々。食いしん坊にはたまらず、また香り立つ江戸言葉に舌鼓ならぬ“目鼓・耳鼓”を打ちたくなる。

 宮部作品は、長編もよいが、短編における小股の切れあがった仕上がりも素晴らしく、感に堪えない。そして本編を読み終えてからのお楽しみが「新潮文庫版のためのあとがき」である。“このたび……”からはじまる、まるで口上口調の文体には、筆者ならではの気持ちとユーモアが混在しており、後味まことによし。

 このようなおまけは、文庫ならではである。宮部先生におかれましては是非に続編をお願いしたい。

 年間いくつもの新訳ミステリーを読んでいると、次から次へと世の中に出版される新刊にふりまわされ、名作をふたたび手にする機会がなかなかなかった。久し振りに本作を読み、さすが永遠のベストセラーという帯のキャッチにいつわりはなかった。おもしろい! 色褪せないそのストーリー展開。そしてなにより田口俊樹氏による満を持しての訳の妙。

 先日、『日々翻訳ざんげ』という田口氏の著書を読んだばかりで、その中で巻頭の頁に本作品の歴代翻訳の違いが列記されていた。いずれも訳者の味わいが異なっている処にとても興をそそられた。

 田口氏の訳でこの不朽の名作が世に出るのはまことに嬉しく、またしばらくしてから今一度楽しみたいと思わずにはいられない。もちろん訳者あとがきは必読である。

『さよならバードランド』はジャズマンの回想録であり、先年亡くなられた和田誠氏によるミュージシャンのイラストも素晴らしい。画から音が聴こえてくるようだ。巻末の訳者による「私的レコード・ガイド」にジャズファンは感涙する。

 もう三冊あげてしまった。『羊たちの沈黙』、『絶対音感』、『チャイルド44』と他にも……あー、この頁は罪つくりだ。

※[私の好きな新潮文庫]罪つくりな新潮文庫――林家正蔵 「波」2021年8月号より

新潮社 波
2021年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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