コロナ禍に異国の地で祈る震災死者の帰郷
[レビュアー] 佐久間文子(文芸ジャーナリスト)
今期の芥川賞受賞作(李琴峰「彼岸花が咲く島」と同時受賞)。
ドイツのゲッティンゲンで美術史を学ぶ〈私〉は駅である人物を待っている。コロナ禍の現在だと示す白いマスクで口元を覆った野宮というその男性は、〈私〉の大学時代の知り合いだが、二人の再会にはどこか奇妙なところがある。
野宮は、〈幽霊〉であるらしい。彼は2011年3月11日に、石巻の実家で家族とともに津波にさらわれ、彼と弟の遺体はいまだに発見されていないということが次第に明らかになる。だが野宮には実体があるようで、〈私〉も周囲の人間も、ふつうに会話したり、スカイプでやりとりしたりしている。
散文詩のようにイメージを縦横に飛躍させながらつながっていく硬質な文章は、繊細な色彩を塗り重ね、時間や空間の地平を複線的に押し広げていく。どうやらこの歴史ある学術都市では、複雑な時間の流れがあるらしく、野宮が知り合う物理学者の名前は寺田(寅彦)。〈私〉が知り合う女性たちは、星座的な人間関係を持っているウルスラや、〈私〉のルームメイトのアガータをはじめ、いずれもが聖女の名前を持っている。
海に消えた野宮は、なぜ海のないゲッティンゲンに姿を現したのか。作品の中で答えが明らかにされることはないが、おそらく〈私〉の思いの強さによるのだろう。
あの日、〈私〉は実家のある仙台の山沿いに近い場所にいた。〈津波が届くことのなかった場所〉〈海も原発も関わらなかった場所にいたこと〉への複雑な思いが、〈私〉の記憶をいったん封じ込め、故郷から遠く離れ、死者の歴史を背負ったこの土地で改めて解き放ち、ふたたび向き合わせた。
海に消えたまま、行方不明になった人々。死者たちの帰郷を祈る真摯な響きを、この小説から聞き取ることができる。