逆光のロマン――『花嫁化鳥』寺山修司著 文庫巻末解説

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花嫁化鳥

『花嫁化鳥』

著者
寺山, 修司, 1936-1983
出版社
KADOKAWA
ISBN
9784041116487
価格
748円(税込)

書籍情報:openBD

逆光のロマン――『花嫁化鳥』寺山修司著 文庫巻末解説

[レビュアー] 馬場あき子(歌人)

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開! 
本選びにお役立てください。

■『花嫁化鳥』寺山修司著 文庫巻末解説

■解説
馬場あき子

「花嫁化鳥」という本の題名は妖しい華麗さと通俗さの顕示があって、いかにも寺山さんらしい日本文化への逆照射のポエジイが感じられるものだ。
 この本の中にも同題名でかかれた指宿紀行の一章があるが、その中で寺山さんは「花嫁」なるものについて、「結婚はきらいだが、花嫁と新婚旅行は好きだった」といっている。なぜかというと、「結婚には、日常性がつきまとうのでわずらわしいが、花嫁とか新婚旅行は虚構だからである」ということだ。
 日本人が「花」ということばをどういうときに意識的につかうかを考えてみるだけでも、そこには憧れや理想とともに、隠蔽的なある種の日常欺瞞の哀しみがあって、日本的表現の精神史からは見落すことのできないことばといえよう。ところが寺山さんの「花嫁」はさらにここで「化鳥」ということばと連合することによって、「花嫁」という語のもつ虚構性の哀しみをいっそうくきやかにし、個性的なイメージを生んでいるといえる。
 少し執していえば、花嫁は鳥になって空へ翔び立てるほど美しいというのか、自由な碧空を捨てた鳥が花嫁に化しているのかはわからないが、おそらくは両方なのであろう。そして何より、翔び立つ羽さえありげに見える花嫁は、じつは翔べないのであり、民話の天女が漁夫や木樵の花嫁となって土着したと同じように翔ばないのである。
「きんらんどんすの帯しめながら/花嫁御寮はなぜ泣くのだろ」という感傷性を、寺山さんは「少女時代からあこがれた花嫁になってしまった。(つまり、もう二度となることができないのだ)という、悔悟が感傷になっている」と見ぬいているが、憧れを得てしまったあとにつづくのは、当然、長い不毛な日常という恐しい弛緩の日々であって、その予感の中に花嫁化鳥たちは生きてゆくのである。
 寺山さんのシナリオ『田園に死す』にも、たしか「化鳥」という美しい本家の嫁が登場していた。八千草薫の扮したその役は一人だけ若く美しく、哀憐な絵そらごとめいていたが、翔べない化鳥は、やっぱり異次元への飛翔の不可能を絵にしたような、共産党くずれの無名の男と情死するほかなかったのだ。
 まだ二十二、三歳で、うら若く少年のようにさえみえた日の寺山さんは、「叔母はわが人生の脇役ならん手のハンカチに夏陽たまれる」とうたっていたが、私は八千草薫の化鳥をみながら、この花嫁化鳥こそ寺山さんの脇役の「叔母」にちがいないと思いつつ、「夏陽たま」るのみのハンカチの白さが、その役割ににじむのをみつめていた。

花嫁化鳥 著者 寺山 修司 定価: 748円(本体680円+税)
花嫁化鳥 著者 寺山 修司 定価: 748円(本体680円+税)

 考えてみると寺山さんはその頃から「家族」とか「血縁」というものに大きな関心を寄せていた。それは父とか母というような自己の出生・出自の確認に一つの文学的な主題をみていることとともに、その人生の脇役としての、無数の叔母、叔父、いとこたちの存在が、自己の存立とどのようにかかわるかという血の分脈を明かすことこそ、日本文化論を成立させる要因であることを考えていたのではなかろうか。
 その寺山さんが、二十年も昔になるが、私の歌集の出版記念会で発言したことばを、私はいまも覚えている。それは、「ぼくと馬場さんの歌とは、いわばいとこのようなもので」というものだった。このことばを覚えているのもその「いとこ」という比喩の巧みであるとともに含有するところの深いおもしろさがあったからで、爾来、私は寺山さんの「いとこ」たることに折々心を留めつつきたのだった。
 たとえば寺山さんは「消しゴム」という自伝抄をかいているが(これは同じ題の映画作品も感銘深かった)、鉛筆でかいた文字や絵を、たやすく消してしまえる消しゴムのように、不用になった係累や、憎い存在を、すうっと消してしまう人生の消しゴムはないものだろうか。消して、消して、消したあとにひっそりと残るひとりの「私」、それだけでは、はたして本当に世に存立することは不可能なのだろうか。そんな連想が感傷的に心にしみる寺山自伝であった。しかし、その寺山さんは、子供の日々に遊んだ「家族あわせ」の温かげな嘘を憎しみながら、切るに切れないふしぎな絆の糸の確認に逆にのめりこむようにかかわっているような気がする。
 それは寺山さんの生きた風土のせいだろうか。その故郷の青森をいま辺境というわけにはいかないが、しかし、寺山さんの記憶する「ふるさと」はその思想の上で、必ず文化的辺境性をそなえておらねばならず、この『花嫁化鳥』一冊を構成する旅のゆくえも、すべてこの辺境性と辺境的文化として意味をもつ祭りの場の探訪となっている。
 たとえば、洩れることなくゆきわたった血族関係の血の繋りの中に、島のように浮んでいるともいえる辺境の日常を、祭りはいっきょに忘却させるべく、異次元の世界へ島ごと村ごと脱出させてくれる特別の一日であるわけだが、その祭りの中で、人々は何と多くの、その血に繋る特異な存在が同一地上にあることを見なければならなかったことか。代表的なものとしては「浅草放浪記」でみつめられている見世物小屋の人々があげられるが、その背景には、そのほかに生きるすべがなかった人たちの、生きながら殺されていた長い長い歴史がある。あるいは祭りとは、そうした者を見ることによってようやく慰められ、復帰してゆく日常の苛酷さを底辺として成立しているといえるのかもしれない。
 そして、寺山さんの心は、そうした血の歴史に、遠い血族の牽引力をも感ずることによってこの旅を意味深くしているのである。風葬・鯨の墓・競馬・呪術というような、こんどの旅の主題の中から、寺山さんは民俗でもなく歴史でもないものを感取することを求めたといっているが、それは「民俗学的見地からの視点を持っていない」という自覚にもかかわらず、取り上げられた習俗はやはりなお、そこを翔びたてぬ男女の土俗的情況の沼の深さをかいまみせつつ、それがまぎれもなくわれわれの「ふるさと」であり、父や母や叔母やいとこたちであることの不気味な自覚をうながしているといえる。
 かつて寺山さんは『戦後詩』の中で、「歴史と地理の思想」について述べていたが、昭和四十年以降の寺山さんの仕事の中で、その「歴史」というたての時間、連続の時間への嫌悪とふしぎな執心は、たとえば「あとがき」にかかれた「──歴史は一つの連続体としてではなく、ただの現在としてのみ存在している。そして去りゆくものは、一瞬にして消失し、何者かの手によって虚構化されない限り、再現することはないのだ」というところにも、一つの結語となってあらわれているといえる。
 そして、そうした、たての時間の存続、寺山さんを証言する歴史そのものとしての最も一般的な虚構を、寺山さんは本書の中でもかなり執拗に、「母」のイメージの底辺的拡大を通じて示そうとしているように思われる。「母」なる存在をどのように認識しうるかという出自への眼が、この旅の背後には日本人の血の原点への思考として流れており、その醜悪をも含めて、断ち切れぬ絆に深く愛執している立場が感じられるのである。
 そしてまた寺山さんは、因習や祭りや、文化史的になお収拾のつかぬほどの困惑的な情況にも、時には思想を与え、時にはその中から現代の箴言ともいえるような喩をつかみ出すことに長けた、やわらかな優しい心を持っていて、池の水を一瞬透明に澄み鎮めて、底の小石や水藻の動きをみせてくれるような楽しさを味わわせる。
「風葬大神島」は宮古島の北端に位置する小島の習俗をつぶさに見つつ旅した紀行だが、島には手毬をつく老婆と子供しかいない、というような意表をついた把握と描出によって、読者はあたかも自分の存在する〈いま〉という現実が、ふしぎな推理空間に変質してしまったように、その止まってしまった時間が異次元的世界をなしているのを感ずるだろう。島には壮年の父母も青年の長子もいなくて、老婆と子供の、手毬をついて消費されてゆく時間だけがある。小さな南の孤島は、年々過疎化しつつ、それでも決して島を出ようとしない人は、三人のツカサを中心に、聖地と閉鎖的な神祭の秘事によって、現代の架空の世界めいた一領域を保っているのだ。
 寺山さんはこの島の崩壊を防いでいる秘密な神事について、「それについて語ることを禁忌としていること自体、神秘化しようとするものではなく、外的干渉によって因果的連鎖がくずれることを恐れているせいではないか、と考える」という、組織論的見地から、原初的集団精神の秘事を衝くとともに、本当の彼らの希求は、民俗的視点から「観察され記述されることではなく、まず生活することの権利を要求しているのである」と、きわめて正当な批評を加えている。あまりに正当すぎるであろうか。しかしながら、それは現代の日常的概念を越えている習俗に対する寺山さんの斬新な論評の視点のかげにある、みょうに鮮明なまっとう性としてかえって印象的である。
 しかしながら、寺山さんはそのまっとう性の根っこと、異常な形態を通して異次元へと昇華してゆく祭りの情念とが通底していることをこそ日本文化論の正の位置を探る視座であると考えているにちがいない。だからこそ、寺山さんが、この大神島の子供たちが日没の頃に「かくれんぼ」をしてあそぶ、と指摘するだけで、我々は「かくれんぼは悲しいあそびである」ことを納得するのであり、「外来者の侵略を潜在化したこの島の子どもたちのかくれんぼは、実に見事にかくれてしまう」ことに、逆に不安なおそれを感じるのであろう。
 そして、「トーヤマの洞窟で焼き殺された島の祖先は、かくれ方がうまくなかったから皆死んだ。だが、子どもたちは息をころし、一度かくれたら、月が出るまで姿を見せないのだ」という抒情的な結語に注目しつつ、寺山さんの詩想を刺戟した「かくれる」ことの哀しみが、島の文化史としても、現代の詩としても哀しいことを理解し、寺山さんの、かの地理と歴史の思想のクロスする地点をここにみるのである。
 つまり、寺山さんにおいて、習俗としての奇矯、人としての象、ないしは人生としての奇異等々は、すべてこうした消しのこされた時間や、止まってしまったり、行きすぎてしまったりした時間にかかわる哀しみの詩であると受け止められているのである。寺山さんの作り出す映像の中で、古い時計がことさらに詩的であるのはそのためかもしれない。
 それにもう一つ、寺山さんの詩は、すべて実画化された人生に特色がある。女相撲とか福助というような、いまは寺山さんの作品記号とさえ感じられるものもあるが、本書を通じてどれだけ多くの、歪みを背負いこんだ詩的人物に出会えることか、それの一つ一つが、現代と近代、そして近世、たどれば古代までも、一気に溯ってしまえる、ふしぎな記号を背負っている。寺山さんはこの旅によって「もう一つの地誌」の証人を志したというが、それはまさに、日常、常識を越えてしか生きられなかったこれらの人々の地誌であり、その停滞感の深い風土性への錘鉛の詩であるといえるように思う。

■作品紹介

逆光のロマン――『花嫁化鳥』寺山修司著 文庫巻末解説
逆光のロマン――『花嫁化鳥』寺山修司著 文庫巻末解説

花嫁化鳥
著者 寺山 修司
定価: 748円(本体680円+税)

最も“カッコイイ”文学者が描く、型破りな紀行文!
稀代の文学者・寺山修司が旅した日本各地に存在する不可思議な世界。
自らの手で集めた資料をもとに、奇妙な風習の謎を解き明かしていく。
日本人の血の原点を探った、寺山流のユニークな紀行文学。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322104000329/

KADOKAWA カドブン
2021年08月04日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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