エーコ『薔薇の名前』 迷宮をめぐる<はてしない物語> 図師宣忠著 慶応義塾大学出版会

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エーコ『薔薇の名前』

『エーコ『薔薇の名前』』

著者
図師 宣忠 [著]/図師 宣忠 [著]
出版社
慶應義塾大学出版会
ジャンル
総記/総記
ISBN
9784766425598
発売日
2021/04/20
価格
2,640円(税込)

書籍情報:openBD

エーコ『薔薇の名前』 迷宮をめぐる<はてしない物語> 図師宣忠著 慶応義塾大学出版会

[レビュアー] 栩木伸明(アイルランド文学者・早稲田大教授)

多層構造の物語解読

 『薔薇の名前』はイタリアの記号論学者ウンベルト・エーコが48歳の時に出版した、小説家としてのデビュー作。邦訳刊行から数えても30年以上たつのに、上下2巻の単行本が版を重ねている。

 推理小説、怪奇小説、歴史小説など、多様な読みを許容する本作については解説本がすでにたくさん出ているけれど、西洋中世史の研究者が書いた本書は抜群に読みやすい。

 エーコの眼目は「中世の中で語る」こと。『薔薇の名前』は14世紀前半、北イタリアの修道院に7日間滞在した見習修道士アドソが、見聞した一部始終を半世紀後に思い出して語る、手記の体裁をとっている。一人称の回想録には、旧約聖書の雅歌をはじめとして、多様な宗教的テクストが引用される。著者によれば、アドソが口ずさむ文章はすべて当時の修道士が読んでいた書物なのである。

 若きアドソは修道院に着いたとき、「最後の審判」を描いた聖堂正面のレリーフを見上げて、その意味を読みとろうとする。アドソの語りには「最後の審判」が描かれた『ヨハネの黙示録』のテクストと、その内容を造形化したレリーフからなる二層が重ね合わされている、と著者は指摘する。まるで、上書きした羊皮紙を使った写本(パリンプセスト)のようだ、と。

 なるほど! 注釈を頼りに『薔薇の名前』を読むぼくたちの楽しみも、うっすら透けて見える、多層化した文字をたどる行為に一脈通じている。

 修道院には図書館があり、現代作家ボルヘスを連想させる盲目の老修道士ホルヘが1冊の書物を隠している。アドソの師のウィリアム修道士は、経験知を積み重ねてホルヘの秘密に挑む。笑いを怖(おそ)れる保守派の実念論と、闊達(かったつ)で異端に近い唯名論の対立が、小説を動かすエンジンなのだ。中世の神学論争で現代の読者を魅了するエーコの力業に脱帽する。

 本書の後半には、羊皮紙や書物やメガネやステンドグラス、さらには異端審問をめぐるうんちくが幾重にも重なっている。上下2巻の小説と本書のページを行きつ戻りつしながら時を忘れた。

読売新聞
2021年7月4日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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