げんじものがたり いしいしんじ抄訳 講談社

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げんじものがたり

『げんじものがたり』

著者
いしい しんじ [訳]
出版社
講談社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784065214084
発売日
2021/04/26
価格
1,980円(税込)

書籍情報:openBD

げんじものがたり いしいしんじ抄訳 講談社

[レビュアー] 梅内美華子(歌人)

京言葉で人間臭い語り

 『源氏物語』が京言葉に、しかもいしいしんじさんの訳となれば独特の世界に連れていってくれること期待大。桐壺(きりつぼ)から葵(あおい)の九帖(じょう)、光源氏の誕生から二十代前半までを収める。まず有名な冒頭は、

 〈どちらの帝さまの、頃やったやろなあ。

 女御やら、更衣やら……ぎょうさんいたはるお妃はんのなかでも、そんな、とりたててたいしたご身分でもあらへんのに、えらい、とくべつなご寵愛をうけはった、更衣はんがいたはってねえ。〉

 古文の授業で習った「御時(おおんとき)」は要点が絞られさらりとしている。尊敬語などは京都弁の「いたはる」「うけはった」と言い換えられており妙にはまっていて納得。原文は語り手が皇族貴族に仕える女房とおぼしき者で、源氏の人生や宮廷の人間模様を俯瞰(ふかん)し時に面白がりながら語っていく。それが現代の京都の話し言葉に訳されると、昔話のようななつかしさとともに、好奇心や憐憫(れんびん)の情に血が通い始め実に人間臭い語りになってくる。光源氏や女君たちの会話には「インドア三冠王」「ほんまキュートすぎ」など若者言葉が織り交ぜられており、現代のフィルターを通して古典が新たな角度から甦(よみがえ)る。

 語りには息づかいや間がある。源氏が最愛の人藤壺の宮に似た少女を見つけて凝視する場面。藤壺は父帝の妻で道ならぬ恋であり、抑えこんでいた恋慕が静かにこみ上げてくる。そこをいしいさんは源氏の心の呟(つぶや)きとして、

 〈はは、なんか、涙、にじんできた。〉

 とする。わたしははっとして立ち止まり、誰も触れることができない透明な粒と感情が体を領してゆく熱さを思い浮かべた。原文は「…と思ふにも涙ぞ落つる」、頭で理解しがちなところに絶妙な間と繊細なニュアンスが加えられた。朗読されると「いしいげんじ」のまろやかな名訳超訳と京言葉の響きをもっと堪能できることだろう。

読売新聞
2021年7月4日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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