日本に実在した「デスノート」その回避方法とは? 高野秀行と清水克行が衝撃の日本像を語る

対談・鼎談

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

室町は今日もハードボイルド

『室町は今日もハードボイルド』

著者
清水 克行 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784103541615
発売日
2021/06/17
価格
1,540円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

日本中世という「辺境」へ

[文] 新潮社


高野秀行さんと清水克行さん (C)新潮社

清水克行×高野秀行・対談「日本中世という『辺境』へ」

武士はもちろん、百姓や僧侶も帯刀し、女性であっても、揉め事が起きれば暴力の行使をためらわない。

さらには僧侶が人を呪い殺し、妻が夫の浮気相手を襲撃することもあったという。信じられないかもしれないが、過去にあった日本の姿だ。

このように私たちが思い描く「日本人像」を根底から覆す日本史エッセイ『室町は今日もハードボイルド―日本中世のアナーキーな世界―』を刊行した清水克行さんが、世界の辺境を取材するノンフィクション作家の高野秀行さんと、かつて実在したデスノートや中世日本と辺境の地の共通点、室町時代の秩序の保ち方などを語り合った。

 * * *

高野 今回は初めてのエッセイですよね。あらためて読んでみて、清水さんが一流の歴史家なのは当然として、完成された語り部でもあると再認識しました。とにかく、読みやすく、面白く、笑える。でも雑学に流れず、歴史と日本人の本質を突いてくる。

清水 ありがとうございます。今回はエッセイということで、歴史研究者の殻を破って、思い切って書きました。

高野 こういう歴史エッセイはありそうでなかったですよね。身近な話題から入って、次第に歴史の深いところに踏み込んでいって、中世と現代に意外な共通点があることを気づかせる。

清水 そこは意識的にやりました。

高野 この構成は、ちょっと授業っぽいと思いました。同性愛の話とか、みんなが興味を持つ話題を切り口にするのは、清水さんが普段の授業でやっていることですよね。

清水 僕が教えているのは商学部なので、卒業後はビジネスマンになる普通の大学生が相手なんです。必ずしも歴史が好きな子たちばかりではないので、「あなたの身近なアレと、歴史上のコレは、実は繋がっているんですよ」という話で気を引くスタイルを15年やってきました。その前は高校の非常勤講師を10年くらいやっていましたし、その紆余曲折でこういう技術が身についたのかもしれません。

高野 なるほど。でも内容は手加減してませんよね。学術書としても通用するレベルできっちり書いて、でもエッセイに仕上げるというのは、なかなかの曲芸です。

清水 二兎を追うのは大変でした。

高野 最後には必ず現代に戻ってオチがつくという安心感もいい。

清水 必ずオチをつけるというのは、高野さんから確実に影響を受けています。真面目な話が2ページくらい続くと、「このあたりに笑いを入れないとダメかな?」と考える癖がついてしまった(笑)。

室町時代の「デスノート」


清水克行さん (C)新潮社

高野 読んであらためて思ったんですが、中世は呪術がけっこう盛んだったんですね。

清水 中世社会の特徴は3つあると思っていて、それは権力が分散した「多層・多元性」、自らの利益は自らで守る「自力救済」、そして仏や神への「信仰心」です。当時の僧侶は武力も相当なものでしたが、それに加えて呪詛も使いました。

高野 「デスノート」があったんですよね。

清水 罰を与えたい相手の名前を書いて呪いをかけていました。しかも実際に効果があったとされています(笑)。マンガ顔負けの世界です。

高野 呪いをかけられた相手が、自分の名前を変えて逃れようとするとか。でもそれって、アリなんでしょうか?

清水 本家のマンガでも、名前を書かれたら死ぬしかないんです。でも僕は、戸籍課にいって改名したらどうなんだろうといつも思っていた。そうしたら中世の人はすでにやっていたんです。

高野 僕も一時期、取材のために名前を変えようとしたことがあるので、他人ごととは思えません(笑)。ところで、呪いに使うときの名前は、どの名前なんでしょうか。日本人にとって本名は「諱」といって、気軽に使ってはいけない名前ですよね。それはこうやって呪術に使われるからということだと思いますが。

清水 そうです。もともとは「忌み名」ですからね。基本は言わないんです。でも公文書には書くので、わかる人にはわかってしまう。たとえば織田信長の「信長」という名前は同時代の人も知っていたはずです。でも、普通は面と向かって「信長殿」とは呼ばないで、「上総介殿」とか官職名で呼ぶわけです。

高野 もっと遡ると知らないのが普通なんでしょうか。

清水 とくに女性はそうだったようです。北条政子は本名がわからないんですよね。「政子」というのは、彼女が朝廷から位をもらうことになって名前が必要になったので、とりあえずつくった名前なんです。

高野 仮の名前なんですね。

清水 父親が北条時政なので、時政の一文字をとって「政子」と。

高野 では源頼朝や義経なんかの本名は知られていたんでしょうか。

清水 御家人だったら知ってるんじゃないですかね。ただ公の場で本名を呼んではいけないというのはルールとしてありますし、女性は本当に知られてなかったみたいです。記録にも残ってません。

コーヒー缶で大豆を計量

高野 それと面白かったのは枡の話。今は枡のサイズは180cc(一合。10合で一升)で決まっているけど、かつてはバラバラだった。

清水 地域どころか、荘園や田んぼごとに違いました。年貢を納める基準になるはずなのに不思議ですよね。しかも8枡で1升のところもあれば、12枡で1升のところもあった。

高野 そう。10進法だけでなく、8進法や12進法が混在する。なんなんだよ一体、と(笑)。でもこれも考えていくと深いんです。たしかにバラバラだけど、では統一するとしたら、どうやってやるんだろうと。誰かが基準となる枡を持っていて、しかもそれが常に参照できる状態になければいけないわけです。メートル法だってメートル原器がパリにあったわけですから。だから基準を持つということ自体が、考えてみたら簡単なことじゃない。

清水 相当面倒くさいはずなんです。だから、とりあえず顔の見える範囲で通用しているなら、わざわざ変える必要もない。それが当時の発想ですよね。

高野 それで思い出したのがアジアの辺境の話です。ミャンマーで納豆の取材をした時、どのくらいの量の大豆を使うか聞くと、1カップ、2カップと教えてくれるのですが、そのカップがどんな大きさかわからない。詳しく聞いてみると、ネスカフェの粉末コーヒーの缶なんですよね。

清水 なんと、手元の缶で(笑)。

高野 ミャンマーの人はネスカフェのコーヒーにコンデンスミルクをたっぷり入れて飲むのが大好きで、全国的な習慣としてあるんです。だからネスカフェのコーヒー缶がどこにでもあるし、みんな使っている。1カップといったら、コーヒーの缶1杯分なんですよ。でもこっちはそんなこと言われてもわからないから、それが何グラムか測ってもらって。

清水 それは調理のときだけでなく、売買のときにも使うんですか。

高野 市場に行って、豆が5カップほしいとか、そういうときにも使います。

清水 じゃあ、まるで枡じゃないですか。

高野 そう。穀物とか豆が積んである上に、計量器具としてポンと置いてある。でもそれって公平性が保てるでしょう。ネスカフェの缶を偽造する人なんていないから。ちゃんとラベルも貼ってあるんです。

 だから、そういうすでに浸透した基準を新たに統一するというのは大変な話です。でもそれを統一したいという人がいるわけですよね。近江商人とかがやってたんですかね?

清水 商人は荘園や国をまたにかけて動くので、枡の容量が違うと困るわけです。だから共通の枡をつくる。

高野 商人がつくった枡があって、それに合わせてくんでしょうね。

清水 そうですね。商人がつくった枡は概ね小ぶりなんですよ。多様なものを測るときにはその方が都合がいいので。それがいまの180ccに繋がっていくんです。

 そういえば、この話を書いているときにビックリすることがありました。東京選挙区のある政治家が、「タピオカの容器の統一」を公約に掲げたんです。この人は現代の豊臣秀吉かと思いました(笑)。そうしたら多くの国民から「お前がやることはそれじゃないだろう」と突っ込まれた。

高野 秀吉が枡を統一したのは、すでに商業枡として下から統一されたものがあって、それを改めて認知しただけですからね。タピオカももっと下の方から、容器を統一しようという庶民の動きがないと難しいでしょう(笑)。

清水 そうですね(笑)。ただこうして、なにかしら基準を統一したい、という政治家は、いつの時代にも現れるんですね。だから、これは昔の話ではないんだと思いました。

「士農工商」の嘘


高野秀行さん (C)新潮社

高野 そういえば、「士農工商」って順序じゃないんですよね。かつては武士が一番上で、商人が一番下だと教えられました。ぼくもそう信じていましたよ!

清水 今はそう教えていないし、もしかすると「士農工商」という用語自体も教えないかも。

高野 目から鱗と同時に腹が立ったんです。嘘じゃんって。僕たちが授業で教えられた頃は、そういう風に考えられてたんですかね。

清水 そうだと思います。実際には、武士とそれ以外という身分差は明確にありましたけど、農工商のあいだに序列はなかったと思います。

高野 中世は農工商でもみんな武力を持って行使していたのが大前提ですよね。

清水 帯刀しているのが普通でしたし、女性でも何かあれば武力で実力行使をすることがありました。本書に出てくるイヲケノ尉は「桶屋のおじさん」という意味ですが、彼は桶をつくる職人で、浄土真宗の信徒でもある一方、戦の経験があり、相撲の興行師で、ヤクザを束ねていた。職業では簡単に人を判断できない時代ですね。

高野 武力があるから、誰もその人たちをバカにしたり舐めたりはできない。逆にいうと、それがないと舐められてしまうということですよね。

清水 『喧嘩両成敗の誕生』という本で書きましたけど、大名が盲人を1人殺したら、仲間の盲人500人に屋敷を取り囲まれたという話があります。相手が一見弱そうに見えても、あるグループに属している以上は油断できないわけです。彼らが死ぬ気で抵抗してくれば、大名といえども謝罪しなければいけなくなる。

高野 ここで久しぶりにソマリ世界を思い出したんです。彼らは氏族同士とか氏族内で存在感をアピールするんですが、もともと弱小でマイナーだった氏族が、あるとき急に思い立ったらしく、山賊行為を始めたんです。街道沿いの茂みに隠れて、バスを止めては片っぱしから強盗をやった。そうして武威を轟かせていたら、その後、内戦終結のための和平会議が開かれたときに、そこに呼ばれるようになったというんです。あいつらは無視できないと。

清水 まわりから一目おかれるようになった。

高野 そうです。あいつらも入れないと和平にならないと。

清水 ステップアップを果たしたわけですね。過激な自己主張が功を奏した。

高野 それまで、その氏族は全然有名じゃなかったし、誰も何とも思ってなかったのに、結果大成功してしまった(笑)。

アナーキーな中の秩序

高野 中世の日本人はみんな、人を殺したり戦ったりでめちゃくちゃなんですが、では、公的な権力がないのかというと、それなりにあるんですよね。権力の二重、三重構造がある。本書にも「隠れ里の150年戦争」という話があって、小さな農地をめぐって二つの村が150年も戦っている。でもその土地にはちゃんと代官がいるし、相手を訴えて裁判もやっている。

清水 自分たちは悪くなかったと主張するために「我々は裁判中には手を出さなかった」と記録に残しています。逆にいえば、公的な裁判中は手を出してはいけないという規範はあったんですよね。だから代官を暗殺しようとしたり、政界工作をしたりしても、まったくのアナーキー(無秩序)ではないんです(笑)。

高野 バランスですよね。最初は武闘派路線バリバリでうまくいってたんだけど、そのあとやりすぎて失敗してるわけで。

清水 それで、ちょっと反省するという。

高野 つまり、公的な権力はあっても、強くはない、あるいは絶対的ではないとそうなる。さきほどのソマリの氏族も一緒です。もちろん恨みは買ってるわけですけど、復讐されそうになると茂みの中に隠れたりして、うまいことやりくりして出世した。やはりバランスが重要なんですね。

清水 どんなにアナーキーに見えても秩序ってあるんですよね。だからホッブズが言うみたいに、法がなくてプリミティブな状態だとみんなが狼みたいになって、「万人の万人に対する闘争」が起きるかというと、そんなことはない。

高野 狼だって、秩序ある群れをつくって生活をしてますよ(笑)。

清水 そうしないと、種が絶えちゃいますからね。

高野 枡の話も、ほかと比べるからデタラメのように見えるけれども、その世界では秩序があるわけです。

清水 そうですね。著者として言いたいのは、アナーキーな中世にも秩序はあったし、現代とは違う秩序の形もあり得るんだということです。

新潮社 波
2021年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク