『センセイの鞄』
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居酒屋でたまさか隣り合った恩師とキノコ汁を楽しむ
[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「秋の味覚」です
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川上弘美の『センセイの鞄』。女性が一人で気ままに飲み屋での飲食を楽しめるようになった時代ならではの物語である。主人公・ツキコは30代後半の独身OL。行きつけの飲み屋でカウンターに坐りざま「まぐろ納豆。蓮根のきんぴら。塩らっきょう」と注文する。同時に隣のご老体も同じ三品を注文。高校時代の「センセイ」との再会だ。
絶妙なチョイスだが、単に味覚の問題ではない。全く同じ肴を選んだということは、特別に相性のいい相手であることのあかしだ。
以後、ささやかながら贅沢な飲み食いの情景をとおして二人の絆は堅固になっていく。とりわけ魅力的なのがキノコ狩の場面である。
「秋の爽気」が立ち込めるころ、センセイとツキコは飲み屋の主人の誘いでキノコ狩に加わる。センセイたちは手際よくキノコを集めてきた。携帯用コンロとアルミの鍋を使ってたちまち逸品の出来上がりだ。
「何種類ものキノコの成分が混じった汁は、えもいわれぬ味がした」。採れたてのキノコの土を払ってさっと炒め、味噌仕立てにしたものである。「馥郁たる香」が読者の鼻先にまで立ち昇ってくるようだ。秋の山のエキスを凝縮した香であり味なのだろう。キノコ汁を飲み干してからの酒盛りがまた羨ましい。「キノコ汁であたたまっていた腹が、酒でさらにあたたまった」。
栃木の山中、酒は東京・青梅の銘酒「澤乃井」。キノコと酒の相乗効果で、ツキコとセンセイは不思議な恋のトリップに深く誘われていく。