人間はなぜ協力するのか そしてなぜ、しばしば協力できないのか

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

協力の条件

『協力の条件』

著者
盛山 和夫 [著]
出版社
有斐閣
ジャンル
社会科学/社会
ISBN
9784641174627
発売日
2021/06/07
価格
4,180円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

人間はなぜ協力するのか そしてなぜ、しばしば協力できないのか

[レビュアー] 盛山和夫(東京大学名誉教授)

社会科学の現状と数理的方法の意義

 本書は、社会学者がゲーム理論を活用して、共有地の悲劇のようなジレンマの構造とホッブズ以来の近代社会思想の根幹の問題意識に通底している、協力問題という古典的なテーマに取り組んだものである。ジレンマに関わるゲーム理論の主要なモデルや議論とともに、社会学者J・S・コールマンによる信頼と社会関係資本の理論を批判的に紹介・検討し、ジレンマ状況のもとでの協力の可能性にとっては、コミュニケーションを通じての新たな社会的しくみの成立が重要だと論じている。

 ここには、筆者なりに、ゲーム理論という分析的で論理的な方法が達成した成果を見据えた上で、社会科学の基本問題への取組を少しでも前進させたいという思いがあるが、この背景には、次のような問題意識もある。

 かつての社会科学には論争がつきものだった。たとえ表立った論争ではなくとも、さまざまな理論的な対立状況が存在していた。政治体制のからんだ資本主義か社会主義かという対立は有名だが、ほかにも、方法論的個人主義か方法論的集合主義か、価値自由か否か、機能主義は正しいか、歴史に進化はあるか、など、枚挙に暇がない。

 こうした論争は、当時の初学者にとっては戸惑いのまとであったけれども、同時に、わくわくする知的好奇心を強く刺激するものであった。しかし、その後、教養の没落、大きな物語の終焉、ポスト・モダンの(一時的な)隆盛などのもと、多くの理論対立はしだいに関心が薄れ自然消滅していった。価値自由の問題など、社会科学の研究者にとっては避けて通ることのできない根源的な問題であるにもかかわらず、理論的に整理された観点が成立しているようには思われない。むろん、理論そのものの展開もかつてよりも弱くなってきたように思われる。

 いずれにしても、こうした背景から、今日の社会科学にはある意味でバベルの塔の崩壊後のような「分裂断片化」が進行しているように思われてならない。たとえば社会学の場合、従来であれば、American Journal of SociologyやAmerican Sociological Reviewといった主要専門誌を読めば、学界の基本的な動向が把握できて、何が先端的な研究課題であるかについてそれなりの感覚をうることができた。しかし、今は、そうした「主要雑誌」が存在しなくなり、かつ、掲載論文がどのような学術上の進展に貢献しているかを読み取ることも、非常に難しくなっている。これは、「社会学だから」という面も多少はあるかもしれないが、他の分野でもそれほど違いはないだろう。

 こうした中で、かねてから筆者には、ゲーム理論を中心とする数理的な方法は、学術界の分裂断片化に抵抗して、社会科学の原点を踏まえた探求の共同性に貢献しうるのではないかという期待があった。数理モデルは、多少、現実の忠実な表象からは逸脱しても、現象の論理を解明する上で、誰もが納得しうる議論の基盤となりうるからである。

 ただ、協力問題に関わるゲーム理論とその周辺での研究は、この2、30年、非常に活発に展開されているものの、やはりしだいに「どういう要因が行動に影響するか」といった細かなテーマの追求に陥っていく傾向が見られる。そこで、改めて、近年の研究の発展を整理しながら、自分なりの理論的提言を試みたものである。

協力問題をめぐるジレンマ・ゲーム

 本書の中味を簡単に説明しよう。冒頭では、カシミヤ山羊の放牧によってモンゴル草原に現実に起こった砂漠化という共有地の悲劇を紹介しながら、「協力問題」を「ジレンマのもとでいかにして協力は可能か」と定式化する。第2章は、協力問題が近代社会思想の基本問題と軌を一にしていることを説明し、第3章では進化生物学における協力の進化を検討している。次の第4章で、フリーライダー問題で有名なオルソンの議論を取り上げ、それがN人公共財供給のジレンマモデルに対応していることを示す。

 第5章は、囚人のジレンマ・ゲームの戦略プログラムのあいだのトーナメント戦に基づくアクセルロッドの「しっぺ返し戦略」の優位とメイナード=スミスのESSの概念を検討し、第6章は進化ゲームに焦点をあてて、シグムンドたちの間接的互恵性のモデルを紹介したのち、トリヴァースの議論を独自にモデル化した「選択的交際」の優位性を示している。第7章は、規範の創生をどう考えるかについて、コールマンが社会関係資本を導いた際の論理、アクセルロッドの二次的フリーライダー問題、そして、ボウルズとギンタスの『協力する種』の議論などを検討した。また第8章は、共有地の悲劇のモデルをN人公共財供給ゲームとして簡明に定式化し、その上で、西原宏の逐次手番のモデルやオストラムたちの共有資源問題を考察した。

 第9章と第10章とは、アクセルロッドがその主著で活用した、第一次世界大戦における塹壕戦のつかの間の平和を分析し、その成立はしっぺ返し戦略の論理によってではなく、攻撃のしかたの差異を用いた「メッセージとしての攻撃」による暗黙のコミュニケーションであったことを明らかにした。

 第11章では、ジレンマ型の実験ゲームにおいて協力の選択が少なくないというよく知られた事実の「説明」を提示した。従来の議論は、「被験者の非合理性や錯認」として見る正統的立場と、「被験者は心理学的ゲームをプレイしている」と見る立場とが対立している。しかし本当の違いは次の点にある。すなわち、理論上のゲームでは無名数としての(つまり、金銭でも効用でもない)「利得の数値」だけが唯一の行動指針の変数であり、(理論上の)プレイヤーは、(不完全情報などの場合はあっても)一義的なゲームツリーのもとでその最大化だけをめざして行為する(と想定される)、それに対して実験ゲームでは、生身の人間である被験者たちは、(実験参加への謝金の意味を持った)ゲーム内で提示される金銭的な報酬のほか、他の参加者や実験者および暗黙裡に想定されている「世間」の行為や反応への「読み」や「意識」からなる複雑な相互作用のもとで、さまざまな要因(利益や価値規範)や配慮(評判)にさらされている。つまり、被験者は、単一の利得ではなく、多様であいまいな(不確実な)相互作用の流れと多くの利得を考慮しなければならないのである(研究者は、こうした要因をできるだけ「除去する」よう実験を設計するが、完全な除去は不可能だ)。

 以上のような分析を経て、最後の2つの章では、協力問題への解をもたらすしくみとして、コールマンによって提示され、パトナムによって発展された「信頼と社会関係資本」の役割を考察したのち、より一般的に、コミュニケーションを通じての新しい制度的しくみの構築がいわば「ゲームチェンジャー」としての役割をはたすものだと結んでいる。

行為の論理と制度の論理

 協力問題に対してゲーム理論は基本的に、「個人の合理性だけを基盤として、協力が成立する理路を導く」ことをめざしている。ルイスのコンヴェンションの定式化に始まって、しっぺ返し戦略の優位や進化ゲームでの間接互恵性や選択的交際の強さ、あるいは進化ゲームのシミュレーションにさまざまな戦略や特性を組み込んで協力的なものの優位を導く研究などは、そうした理路を示しているように見える。

 しかし、本書が明らかにしたことの一つは、それらは確かにゲーム理論の優れた成果ではあるが、「現実社会における協力」を説明するものではないということである。たとえば、塹壕戦のつかの間の平和は、実際には、攻撃のしかたの差異を活用したコミュニケーションを通じての暗黙の合意に基づいていた。また、進化ゲームにおける「戦略の強さ」は、通常の意味での「合理性」は関係なく、たんに「事後的な選抜」によるものである。

 もっとも、このことは合理性や利己性の仮定が「社会科学の方法として不適切」だということを意味しない。実際に、多くの場面において人びとは合理的にそしてしばしば狭い意味で利己的に行動している。

 しかも、ジレンマが存在するのはまさに人びとがしばしば狭い意味で利己的だからである。合理性や利己性は人間社会の否定できない一側面だ。そして、そうだとすれば、「ゲームの構造が基本的に変わらないままで、ジレンマから脱却すること」は、むしろ「論理的に不可能だ」と考えなければならない。つまり、ジレンマからの脱却で必要なことは、ゲームの構造を変えることなのだ。実際、しっぺ返しにしても間接的互恵性にしても、それらが優位になるのは、もとのゲームにおいてではなく、無限繰り返しとか個体識別や情報流通などの、新しい「ゲームの構造」が想定されるときである。

 ゲーム理論は、ゲームの構造が与えられたときに、人びとがどのように行動するかについて一定の明解な分析を与えてくれる。しかし、それがジレンマであった場合には、そこから脱却するためには、ゲームの構造そのものを変えるしかない。このとき「制度」こそは、人びとにとっての選択肢を変え、理念、規範意識、行動の水路づけ、予測可能性、帰結の見通しと評価、などを提供して、人びとの「合理的選択の構図」を変えるものとなる。

 以上が、本書のおおまかな結論であるが、2点、補足を述べておきたい。

 第1は、ジレンマ状況とは「協力すれば全員にとって利益となる集合的帰結がえられる」状況だから、ジレンマの克服にとって第一義的に重要なことは、「共同の利益が存在すること」について共同の認識が成立することである。そして、現実社会でジレンマの克服が困難なのは、そうした共同の認識がえられていない場合が多い。たとえばコロナ禍では「自粛」が共同利益であるとされてはいるが、そのなかで「要請に反しても飲食する」人の多くは、おそらく「自粛が共同利益」だとは信じていないのである。むろん、理由はさまざまで、「飲食する楽しみを奪って何が共同利益か」と考える人もいれば、「そもそも飲食を自粛しても感染抑制にはならない」と考える人もいる。いずれにしても、これは、厳密に言えば「全員にとって利益」というジレンマの要件が満たされていないことを意味する。

 第2に、社会科学にとって、制度は個人行動以上に重要な研究対象であるが、法、政治、経済システム、社会保障等々、個別の具体的な制度の研究は盛んだけれども、制度の生成や変動のメカニズム、その基本構造など、個別領域を超えた「制度一般」についての理論的探求はほとんど見られない。これは、ゲーム理論を中心に、個人行動の論理に関する研究が膨大に存在するのとは著しく対照的である。今後、制度の論理に関する理論的研究が活性化することを期待したい。

有斐閣 書斎の窓
2021年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

有斐閣

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク