映画では捨象された原作の濃密な時間の流れ

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イギリス人の患者 (新潮文庫)

『イギリス人の患者 (新潮文庫)』

著者
マイケル・オンダーチェ [著]/土屋 政雄 [訳]
出版社
新潮社
ISBN
9784102191118
発売日
1970/01/01

書籍情報:openBD

映画では捨象された原作の濃密な時間の流れ

[レビュアー] 吉川美代子(アナウンサー・京都産業大学客員教授)

 この小説に出会ったことに感謝。読書の喜びを教えてくれる珠玉の名作である。

 第二次大戦末期のイタリア。砲撃で廃墟のようになった古い屋敷。カナダ人の若い従軍看護婦ハナ、全身火傷で死期の近い「イギリス人の患者」、ハナを子供の頃から知っている元泥棒で連合軍スパイのカラバッジョ、そしてイギリス軍爆弾処理班のインド人中尉キップ。4人がこの屋敷で数か月を過ごすことになる。

 患者は、実はハンガリー人で砂漠の探検家アルマシー伯爵。モルヒネで朦朧とした意識の中、砂漠での日々と人妻キャサリンとの愛の記憶が断片的に甦る。多くの兵士の最期を看取ってきたハナは、死と隣り合わせの危険な爆弾処理を続けるキップに惹かれていく。だが、この作品は男女の愛だけを描くのではない。心の傷、癒し、絶望、憎しみ、苦悩、死、戦争、国家……。詩的な美しい文体で語られるのは、4人の人生と魂の重層的な物語。

 映画『イングリッシュ・ペイシェント』はアカデミー賞では作品賞、監督賞など9部門受賞。原作ではアルマシーの記憶の中に登場し脇役的存在だったキャサリンが、彼と共に主役となる。二人の愛が物語の中心となるため、人物設定や時間の流れなど多くの部分を変更し、切り捨てた。出演者も台詞も映像も文句なしに素晴らしいが、原作を知っていると、何かが失われてしまったような物足りなさを感じてしまう。例えるなら、複雑で類まれな美しさのジグソーパズルを完成後にバラバラにし、ピースの一部を拾って、違う図柄の小さな美しいパズルを作り上げたような印象。

 キャサリンの死と大火傷、記憶のすべてが蘇った時、アルマシーは静かに息をひきとる。悲劇に終わった彼らの愛とは対照的に、映画はハナとキップの愛に僅かな希望を持たせて終わる。だが、原作では戦争と西洋文明への怒りに駆られたキップが突如屋敷を去る。映画にはなかったその十数年後、インドで医者として家族と幸せに暮らすキップが、屋敷での日々とハナを想うラスト。読み終えた瞬間、4人と濃密な時間を過ごした読者の胸に深い感動が押し寄せる。訳も素晴らしい。

新潮社 週刊新潮
2021年9月16日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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