あなたのいない毎日に慣れることができない 91歳社会学者が綴った愛妻に向けたラブレター

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九十歳のラブレター

『九十歳のラブレター』

著者
加藤 秀俊 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784103541516
発売日
2021/06/24
価格
1,650円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

代表的知識人が描く極私的ラブストーリー

[レビュアー] 古市憲寿(社会学者)


妻と共に過ごした日々を綴ったラブレター

古市憲寿・評「代表的知識人が描く極私的ラブストーリー」

戦後日本の代表的な知識人の一人・加藤秀俊が、妻と共に過ごした日々を綴った『九十歳のラブレター』を刊行。敗戦、戦後復興、高度成長など、時代の転換期を共有してきた妻の死によって人生が根底から変わってしまった社会学者の心境が記された本作の読みどころを社会学者の古市憲寿さんが語る。

 * * *


古市憲寿さん(撮影:蜷川実花)

 この本は、「ぼく」と「あなた」をめぐるラブストーリーである。1937年4月1日から2019年9月16日までの約80年にわたる日々が綴られている。

 同じ小学校に入学した「ぼく」と「あなた」は、お互いの存在をぼんやりと認識しながらも、直接は会話を交わすこともなく卒業してしまう。戦争が激化する中、やがて「ぼく」は陸軍幼年学校へ進み、「あなた」は勤労動員で旋盤工として働いていた。

 そんな二人が再会したのは戦後、「ぼく」が大学生になった時だった。下北沢駅のホームで偶然、渋谷行きの電車を待っている「あなた」を見かける。

 二人は毎週のようにデートを重ねるようになった。「あなた」は太宰治の熱烈な信奉者で、「ぼく」は坂口安吾が好きだった。文学談義を交わしたり、時にはグループで山中湖に合宿をしたり、二人の仲は深まっていく。

 こんな風にあらすじを紹介すると、まるで朝の連続テレビ小説の冒頭のようだが、この本はフィクションでもなければ、第三者によるルポルタージュでもない。

「ぼく」こと、書き手は1930年生まれの社会学者、加藤秀俊さん。「あなた」は長年連れ添ってきた妻の隆江さん。

 加藤秀俊さんは、戦後日本の代表的な知識人の一人だ。1957年に発表した「中間文化論」で論壇の話題をさらい、『整理学』や『人間関係』など何冊ものベストセラーを出版してきた。あの有名なリースマン『孤独な群衆』の翻訳も手がけている。社会学者の竹内洋さんの言葉を借りれば「町人型公共知識人」であり「日本型カルチュラル・スタディーズの開拓者」。象牙の塔に籠城することなく、常に世界中の「世間」と共に活躍を続けてきた。近年も『メディアの展開』や『社会学』など挑戦的な書物を世に問うている。

 僕が加藤先生と知り合って十年ほどになる。博学さと思想の自由さにいつも驚かされるのだが、『社会学』を最後に新しい本を出版する予定はないと聞いていた。

 だから新刊と聞いて喜んだのだが、まさかこのような本だとは思わなかった。極めて私的で、叙情的な、そして悲しい一冊である。何せ、加藤先生が、すでにこの世界にいない「あなた」に向けて綴ったラブレターなのだから。

 それにもかかわらず、この本は多くの人に開かれたものになっている。一つは登場人物が非常に魅力的であるから。「ぼく」も「あなた」も聡明で、冒険心があり、そしてチャーミングだ。二人の人生を応援しながら読みたくなってしまう。「あなた」が単身、商船でアメリカへ渡るシーンなんて冒険小説のようだ。

 加えて、激動の時代のレコードとしても読み応えがある。戦争の拡大と敗戦、戦後復興、高度成長。二人は、教科書に太文字で記載されるような出来事を幾度も経験してきた。

 たとえば1952年5月1日に起きた血のメーデー事件がある。皇居前広場でデモ隊と警官隊が衝突し、死者と多数の負傷者が発生した。

 その事件には「ぼく」も参加していた。全学連の役員を押しつけられ、デモ隊の先頭に立っていたのである。武力衝突が起こり、威嚇射撃をする警官。騒然とした現場から「ぼく」は逃げた。警官に追われながら走っていると、ここにいないはずの人を見かけた。それが「あなた」である。

「あなた」は山の手のお嬢様だった。東京都の教員採用試験に合格して、中学校の英語の教師をしているはずだ。そんな「あなた」がなぜここにいるのか。

 実は、日教組の組合員として、デモに動員されていたというのだ。二人は、一万人の群衆の中から全くの偶然に出会ったのである。「ぼく」は「あなた」の手をにぎりしめ、有楽町、そして銀座方面へと向かって走り出した。

 朝ドラもびっくりのドラマチックなシーンだが、血のメーデー事件の証言としても重要だ。しばしば歴史叙述はイデオロギーに搦め捕られてしまうが、社会学者らしいフラットな目線は、時代の空気をよく伝えてくれる。

 その意味で、この本は優しく知的なラブストーリーでありながら、ログブック(航海日誌)でもある。「ぼく」と「あなた」の航跡は、社会の航跡でもあった。そして「ぼく」が社会について発表してきた著作は、いつも「あなた」と共にあった。本書もまた「あなた」と共にある。

新潮社 波
2021年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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