『長い一日』
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不思議な磁場に捕らわれる心地よい充足感
[レビュアー] 佐久間文子(文芸ジャーナリスト)
本のカバーの、タイトルの「一」だけびろーんと伸びている。小説の登場人物がすごす一日も、何度も想起され、それぞれの記憶がまざりあって、どこまでも伸びていく。
始まりはエッセイのようだ。二〇一七年八月、「私たち」夫婦は、七年半過ごした世田谷の家から引っ越すことを考えていた。二世帯住宅として建てられたその家は、一階に大家の夫婦が住んでいて、おじいさんは九十歳を過ぎたいまも鉄鋼製品を解体する仕事をコツコツ続けている。
解体するのは、たとえば床屋のサインポールだ。赤、青、白の「あのぐるぐる」が何百、何千とおじいさんのもとに集められ、解体される光景を想像するあたりで、すでに小説の磁場は発生している。
おじいさんは仕事を辞めようとしている。私たち夫婦は、引っ越しを考えている。何かが失われるときはじめて、なくしたものの輪郭が、くっきりと見えてくる。古い一軒家に差し込む日差しの明るさや、慣れ親しんだスーパーオオゼキの魅力的な食品棚。とつぜん視界がクリアになる瞬間が、飄々とした筆致でくりかえし描かれ、胸に迫る。過去への愛着を描きながら、夫婦は同じ場所にとどまるのではなく変化を選ぶ。
著者独特の視点の移動も面白い。最初、小説家である「私」の視点で始まるが、妻の視点に変わると、「私」は「夫」と呼ばれる。「私」の学生時代の友人で、滝口悠生の小説『茄子の輝き』のモデルであるらしい「窓目」の視点からは「滝口」になり、時には登場人物が知りえない事実を知る神の視点にもなるが、目まぐるしさを意識させないなめらかさで、視点は次々、移っていく。
何かを思い出せば、別の何かが思い出され、小説の時間はまっすぐに流れない。おもだったできごとは花見と引っ越しぐらいで、あとは何気ない日常が淡々と書かれているだけなのに、読み終えて、長い旅をしたような充足感を覚えた。