幸あれ! あらゆるものからの旅立ちに

レビュー

4
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旅立つには最高の日

『旅立つには最高の日』

著者
田中 真知 [著]
出版社
三省堂
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784385365206
発売日
2021/06/23
価格
2,200円(税込)

書籍情報:openBD

幸あれ! あらゆるものからの旅立ちに

[レビュアー] 大竹昭子(作家)

 それまで浸っていた現実とは異なる価値世界に遭遇することが旅の意義ならば、観光客が行かないような土地でのさまざまな人間との出会いにこそその真価があるのではないだろうか。

 エジプトでは、砂漠の岩山の涸れ谷にコプト正教の修道士が暮らしているのを知り、著者は繰り返し訪ねる。師父エリシャは言う。「(ここでは)持つことに、心をくだく必要がないから、町で暮らしているときよりも悩まずにすむ」と。

 スーダンでは、列車がすさまじい混みようだったので屋根に上がりシュラフを金具に結びつけて寝ていたところ、夜中にそれが緩んで落下しそうになる。そのとき腕をつかんで引き上げてくれたのは、隣に寝ていたオーストラリア人だった。十代で家を出て五年以上旅を続けている彼は、レスラーのような体格なのに無口で、荷物はごく少なく、片方の靴が屋根から落ちると、直ちにもう片方も投げ捨ててしまった……。

 持たないことの強さが、だれの心にも根を張っている。その最たる人は「歩く人」に出て来る年金で旅をつづける水津さんだろう。六十歳で仕事を辞めて国内を旅したのを皮切りに、一年の半分以上をバックパックひとつで海外で過ごすようになった。旅先で睡眠薬を盛られたり、首締め強盗にあったりしても旅を止めない。すべての出来事を受け入れる彼には悩む間がなく、自分の存在すらも、生まれては消える現象のひとつとしてとらえているかのようだ。

 国家や社会につながっている紐帯を出来るだけ遠くに伸ばした地点に彼らはいる。もちろんその日々とて不変ではなく、例えばコプト正教の修道院は政変により大きく揺らいでしまうが、ハイテク社会にいる私たちも同じ運命にあることがパンデミックにより暴かれてしまった。

 あらゆるものからの旅立ちを示唆する本書を、自粛生活に悶々とする十代に贈りたいと思う。

新潮社 週刊新潮
2021年9月23日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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