「命のヴィザ」言説の虚構 リトアニアのユダヤ難民に何があったのか? 菅野賢治著 共和国

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「命のヴィザ」言説の虚構

『「命のヴィザ」言説の虚構』

著者
菅野 賢治 [著]
出版社
共和国
ジャンル
歴史・地理/外国歴史
ISBN
9784907986810
発売日
2021/08/06
価格
5,720円(税込)

書籍情報:openBD

「命のヴィザ」言説の虚構 リトアニアのユダヤ難民に何があったのか? 菅野賢治著 共和国

[レビュアー] 加藤聖文(歴史学者・国文学研究資料館准教授)

「杉原神話」資料から検証

 リトアニアのカウナス領事代理だった杉原千畝は、ナチスのホロコーストから逃れようとするユダヤ人に対して、外務省の命に背いて日本通過ビザを発給し、6000人の命を救った――とされる。今では通説のようにいわれ、杉原は世界に誇る日本の偉人となった。果たして本当か? 杉原にまつわる「神話」は、学術的な検証もないまま一人歩きをして社会に広まり、今では誰も異論を挟むことができなくなってしまった。

 近年、そうした「命のビザ」をめぐる物語を歴史資料から実証的に検証する研究も出てきた。ユダヤ研究者の著者による本書は、その流れに位置づけられるもので、ニューヨークにある「アメリカ・ユダヤ合同分配委員会」の3000件を超す関連文書記録を丹念に読み解き、「命のビザ」の真相に迫った力作である。

 杉原がカウナスに着任したのは1939年8月、ビザの発給を始めたのは翌年7月、カウナスを離れてベルリンへ向かったのが9月なので、ビザの発給はほぼ2か月間。ただ、よくよく考えるとおかしなことに気づく。ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発したのは、杉原が着任した4日後の9月だが、ビザの発給開始まではリトアニアという国が存在していた。そして、ビザが発給されていた2か月間にリトアニアはソ連に「併合」された。すなわち、リトアニアがドイツに占領されて、ユダヤ人がホロコーストに送られつつあったわけではなかった。では、杉原に助けを求めたユダヤ人は何から逃れようとしていたのか?

 独ソによって分割されたポーランドから多くのユダヤ人がリトアニアに逃れてきた。そして、リトアニアが併合されると彼らはソ連の共産主義体制から逃れようとしたのだ。しかも、「命のビザ」の背景にはソ連の政治的思惑が絡み合っていた。しかし、ソ連ではなくナチスからの迫害という言説を流布したのは杉原本人であった。なぜ、杉原はそのように語ったのか? 杉原をめぐる「神話」には、まだ明らかになっていない歴史が存在する。

読売新聞
2021年9月12日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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