認知症になったら誰にケアされたいか

レビュー

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ケアのたましい

『ケアのたましい』

著者
アーサー・クラインマン [著]/皆藤 章 [監修、訳]
出版社
福村出版
ジャンル
哲学・宗教・心理学/心理(学)
ISBN
9784571240911
発売日
2021/08/10
価格
4,180円(税込)

書籍情報:openBD

認知症になったら誰にケアされたいか

[レビュアー] 大石智(医師、博士(医学))

精神医学、人類学、グローバルヘルス、医学における文化的、人道的問題に関するもっとも著名で影響力のある研究者、ハーバード大学教授アーサー・クラインマンによる『ケアのたましい 夫として、医師としての人間性の涵養』が刊行。早期発症型アルツハイマー病と診断を受けた妻との生活を背景にケアをすることの実践的、感情的、精神的な側面を描いた本作の読みどころを相模原市認知症疾患医療センター長の大石智さんが語る。

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本書との出会い

 恥ずかしいが正直に告白する。私は『ケアのたましい:夫として、医師としての人間性の涵養』を手にするまで、著者のアーサー・クラインマンを知らなかった。本書の頁数は著者のことを知らぬまま、気軽にすぐさま読み進めたくなる程度の量ではない。だが何故か、何かに導かれるように、締め切りの迫る依頼原稿のことを忘れて夢中になって読み進めてしまった。読後は付箋だらけになっている。今やそれまで知らなかったアーサー・クラインマンは、まるで私にとってアイドルのような存在になっている。そしてもっと早くその存在を知り、医者になりたての頃にアーサー・クラインマンの著書を読んでいれば、今よりましな医者になれたかもしれない、今よりましな夫になれたかもしれないと後悔している。それと同時に、まだ医者として、人として半人前のうちにアーサー・クラインマンの著書に出会えた幸運を噛み締めている。本書には医者の人間性、医者以前に人としての人間性に響く、良心を育む物語で溢れている。

著者のこと

 アーサー・クラインマンは医学博士、精神科医であり、医療人類学における大御所というべき存在である。スタンフォード大学および同大学医学部で学び、40年以上に亘ってハーバード大学で教鞭を執っている。現在はハーバード大学医学部の精神医学および医療人類学の教授であるとともに、同大学芸術学部のエスター・アンド・シドニー・ラブ財団の人類学教授である。生物医学の疾病的理解に対し、患者の主観的経験、病いの語り、ナラティブを大切にすることを医学教育にとりいれる重要性を主張している人物だ。

 クラインマンは本書を通して、妻のジョーンに出会うまで、ジョーンに出会いジョーンが早期発症型アルツハイマー病と診断されるまで、ジョーンが診断されケアをする日々、ジョーンが亡くなってからという過程を通して、ケアの本質に迫っている。その筆致は謙虚でどこまでも優しく、温かい。ケアすることはケアされることと同義だと指摘し、ジョーンへのケアを通して、部分的に自分の一部がジョーンに置き換わったように感じていると述べている。クラインマンが描くジョーンの温かな人柄に触れ、本書の筆致から慈愛を感じると、クラインマンがそう述べるのも理解できる。そして本書はジョーンのケアをするまでの自身を謙虚に振り返り、ジョーンのケアを経験し、ジョーンを失い、自身に生じた変化に気づくという、教訓的で高潔なラブ・ストーリーでもある。

日本のヘルスケア・システム

 アメリカほどではないと思いたいが、日本のヘルスケア・システムも官僚化がケアに多くの喪失をもたらしている。病院にいると短い時間で多くの人を診療する経済的効率性が求められがちだ。毎月、診療科別の収支報告が公開、共有され、収益性の高い診療行為が優先されやすくなる。公益性が高く倫理的に大切にしたい事業だったとしても、収益性を望めなければ切り捨てられることはめずらしいことではない。医療にまつわる法、厚生労働省が発出する通知、医療機能評価等の裏付けを理由に生まれる大量の書類作成、報告書や検査結果の確認、数々の会議によって、患者のそばで病の語りに触れる時間は失われていく。こうしたことは病院だけではなく、診療所、訪問診療、訪問看護など、あらゆる医療の場面でうまれている。

 医療だけではない。介護もヘルスケア・システムの重要な要素だ。だが通所、入所といった介護サービスを提供する介護事業所、ケア・プランを策定する介護支援専門員(いわゆるケア・マネージャー)、訪問介護など、介護の世界にも官僚化がケアに喪失をもたらしている。例えばケア・マネージャーにとってみれば、介護サービスを利用していない人を担当しても収入は発生しない。当然、ケア・マネージャーは何の連絡も取ろうとしなくなる。それでも周囲がサービス利用の必要性を感じていても本人が拒むのには理由があると考え、定期的に訪問しその人の語りに耳を傾けるケア・マネージャーもいる。

 クラインマンは専門とするリエゾン・コンサルテーション医療で出会った患者、医療従事者との物語を通して、医療における官僚化とそれがもたらす懸念を浮き彫りにする。それとともに、官僚化に抗い患者のそばで病の語りに触れようと奮闘する医療従事者と患者の物語も語り、医療におけるナラティブの大切さを伝えている。クラインマンが伝えたいこの本質は、妻であるジョーンが早期発症型のアルツハイマー病という診断を受けた後、ジョーンへのケアを通して、より一層、確信の度合いを深めて綴られていく。

認知症の方と出会った時の思い出

 本書を読みながら、施設に入所している認知症のある高齢の人が怒りっぽくなったから診てほしいと言われて、非常勤勤務先からその施設を訪れた体験を思い出した。自己紹介をしてからその人の生い立ち、結婚、仕事、子育て、家族に対して抱く想いに耳を傾けているうちに、怒りっぽくなった理由に辿り着くことはめずらしいことではない。施設の職員は明日からの介護に不安を抱き、薬を処方してもらいたくてたまらない表情を浮かべていることが多いが、語りに耳を傾け、心に生まれた周囲を困らせる変化の理由に気づき理解し、それを周りにいる人たちと共有するだけで、周囲を困らせる変化が消えることがある。それを見ている職員の中には「先生だから態度が変わる」という人がいる。私はそう言われるだろうと思い、白衣を脱いで面接するようにしている。常勤先の大学病院でもできるだけ来訪した人と対等な関係を保ち、言葉を引き出したいと願い、規則に従わず白衣を脱いでいるが残念ながら一人当たりに割くことの出来る時間は極めて短い。通常3分、長くて10分。これではただ白衣を脱いでいるだけで、病いの語りに接近しきれない。医療の官僚化によって生まれる経済的効率性は、こうして病いの語りに触れる時間を奪い、官僚化の暴力性、不合理さに無自覚な医者を生み出す。日々の診療で感じるこうした後味の悪さの理由が何なのかを、本書は教えてくれる。

官僚化に抗するために

 本書を読み終えた頃、リエゾン・コンサルテーション業務の中で、ある病棟に入院している人の支援方針を決めるための会議に参加した。入院している人のWell-beingを重視し、薬剤の整理と望ましいケア、身体拘束の最小化のための方策について考えていることを提案したが、担当医からは無事に転院させるためにこのまま薬理学的鎮静と身体拘束を優先することが望ましいと言われた。会議の後、person-centeredからかけ離れたその担当医を批判する同僚たちの囁きを耳にした。だが、私はその担当医を批判する気持ちになれなかった。その担当医は病院が求める医療の効率化と安全性に従順になっているにすぎないのだ。批判すべきは病の語りに触れることの大切さを教え切れていない医者の卒前卒後教育システムと、ヘルスケア・システムの官僚化なのだ。そしてその担当医の中にある理念を変えられない自身の力量不足こそ批判すべきなのだ。卒前卒後教育システムの責任者ではないにしても、少なからずそれに関わる教育スタッフである自身の不甲斐なさを苦々しく思った。本書は医者の養成課程に身を置く人に、そうしたメタ的視点を授けてくれるように思う。とはいえ、教育、臨床、研究で成果を暴力的に求め続けるこの国の大学病院に身を置きながら、卒前卒後教育システムの中で自分に何が出来るのかを考えていると、途方に暮れてしまうのも事実である。

亡き妻への思いが越えてゆくもの

 クラインマンはケアにまつわる考察をさらに深めていく。ジョーンへのケアを通して、ケアというもののなにものにも変えがたい尊さ、意義深さへの気づきを深め、「ケアをとおして善を為すという、この人間的な負託を実行に移そうとすると、世界はどのように見えるだろう?この前提から始めれば全てが違ってくる」と言及し、ケアを社会生活の基盤とすること、あるいはケアに与えられている価値が今より高められることは、教育、政策、ビジネス、外交、人権問題、環境問題など、数々の問題に変革がもたらされる可能性があることを指摘している。新型コロナ・ウイルス感染症流行の渦中でもなくならない世界の紛争地帯では、今この時も悲劇が繰り返されている。ケアを探求し、その価値を高め、あらゆる事象がケアを前提として考えられたなら、人種、性別、宗教の違いを超えて、人は人をいたわり、慈しむことを優先するようになるのではないだろうか。高齢者が人口の多くを占める日本は、ケアに着目するまたとない環境にある。クラインマンが届けてくれたこの滋味豊かな物語は、この機会を失わず、ケアへの考察を深め、体現することの必要性を伝えているように感じている。

 新型コロナ・ウイルス感染症流行の渦中で、ヘルスケア・システムの綻びが露呈している。政策、政治の責任が槍玉に挙げられている。その議論を目にする限り、ケアの視点は不足しているように思う。取り上げられるのは疫学データの数値、経済的なコストばかりだ。だが解決には近づいていない。不足しているケアの視点を取り入れることが、最適解に近づくために必要な気がしている。

福村出版
2021年10月1日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

福村出版

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