『身内のよんどころない事情により』
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
創造者の思惑が乱反射する美しく恐ろしい分身小説
[レビュアー] 鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)
作家が作家の人生を描くことのサスペンス。ある小説がひらめきを得て芽吹き、構想され、書かれ、後の世に評されるまでを巧緻な構造で語るメタ小説の傑作である。
ベルギーの男性作家エミール・ステーフマンは四十歳。十年の作家活動のなかで、五冊の本を出版し、『殺人者』という次作を刊行予定だ。その日は、会食に招待されているが、急に行く気がうせてしまう。
その時、自分の中から声が響いてくる。「身内のよんどころない事情により」と。そうだ、この言い回しを使って断ろう。彼はそうして会合をドタキャンするが、このフレーズにある意味、とり憑かれてしまう。
自分の死後、メールボックスでこのミステリアスな言葉を見つけた伝記作家は、何があったのか知ろうと躍起になるだろう。そんな想念をきっかけとして、ステーフマンは自分の分身を主人公にした『T』という小説を書こうと決心する。彼と年齢も近く、そっくりな家族や隣人をもつ作家T(本書作者のイニシャルでもあるが)はそれ以来、ステーフマンの生活を侵食しだす。じきに四歳にならない愛娘が病に倒れて……。
架空の作家と、架空の架空の分身作家が位相をこえて交わる第一部。第二部はステーフマンが娘に付き添いながら病室で書いた手記(同じことを作者のテリンも経験している)。第三部はいっきに時間が飛び、彼の人生を伝記にまとめようとする作家の視点で書かれる。
なんて、ややこしい!? 心配はご無用。親切で優れた訳者あとがきが指針になるだろう。特に第三部に、本作の「罪と罰」が響きあう。「新たなドストエフスキー」となったステーフマンは、『T』という自伝的小説を書きあげていたが……。
ステーフマンと、T(テリン)、書かれているのはどちら? 前者を待ち受けていた「書くこと」の罪とは? 創造者の思惑が乱反射する美しく恐ろしい分身小説だ。