池上彰が語る、ブラジルに渡った日本人の悲しい争い 実は恐ろしい「勝ち組」「負け組」のもう一つの意味

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灼熱 = BRASA

『灼熱 = BRASA』

著者
葉真中, 顕, 1976-
出版社
新潮社
ISBN
9784103542414
価格
2,860円(税込)

書籍情報:openBD

なんという熱情

[レビュアー] 池上彰(ジャーナリスト)

池上彰・評「なんという熱情」

日本からブラジルに渡った移民たちの間で起きた抗争を描いた長編『灼熱』が刊行。これまで、社会の抱える欺瞞や病理を炙り出すようなエンターテイメント小説を多く発表、社会派ミステリーの旗手として注目を集めてきた葉真中顕さんの新たな代表作『灼熱』について、ジャーナリストの池上彰さんが読みどころを解説する。

 ***

「あの人はプライベートでも仕事でも充実していて、まさに勝ち組よねえ」

 こんな言い方をよくしますね。でも、本来の「勝ち組」「負け組」は、そういう意味ではなかったのです。日本から遠く離れたブラジルで、太平洋戦争は日本が勝ったと思い込んだ人たちが「勝ち組」と呼ばれ、負けたという正しい認識を持った人たちは「負け組」と呼ばれ、どちらが正しいかをめぐって争ったという歴史があるのです。

 両者の対立は、次第にエスカレートし、遂には死者が出る事件にまで発展します。葉真中顕氏の小説『灼熱』は、この歴史的事件を元にしています。

 本書によれば、「勝ち組」「負け組」という呼称は、後年定着したもので、当時は「戦勝派」ないし「信念派」対「敗戦派」ないし「認識派」と呼ばれたそうです。

 太平洋戦争で日本が負けた事実を認めた人のことを、「戦勝派」は「敗希派」と罵りました。日本が敗北することを希望していた売国奴だ、というわけです。

 一方、「敗戦派」は、日本が負けたことを認めようとしない人を「狂信派」と呼びました。これでは両者の対立はエスカレートするばかりです。

 明治から昭和にかけ、貧しかった日本は、過剰人口を輸出します。当初はアメリカに移民を送り出すのですが、「黄禍論」が台頭。日本人の移民が不可能になります。そこで次に狙ったのが、南米とりわけブラジルでした。

 農家の長男は家を継ぎますが、次男や三男は故郷を出なければならない。どうせなら異国で一旗揚げたい。こうした人たちが、日本政府の国策に乗ってブラジルに渡りました。ブラジルのコーヒー農園で働けば、すぐに故郷に錦を飾れると聞かされていたのですが、そこに待っていたのは、奴隷同然の苛酷な労働でした。夢を抱いて移住した人たちは、苛酷な現実を前にして、「日本に裏切られた」「日本に捨てられた」と恨むようになります。

 しかし、現地のブラジルでも日本人に対する排斥意識が高まり、「ジャポネース」(ポルトガル語で日本人)と呼ばれて差別されるようになると、次第に自分たちが日本人であるという意識が強まります。

 さらに日本が連合国を相手に戦争を始めると、人々は見事に帝国臣民になっていきます。日本国内の人々にまして、精神の上で大日本帝国の臣民になり、日の丸を掲げ、教育勅語を暗唱。天皇の御真影を飾るようになるのです。

 こういう人々の心の動きは、「遠隔地ナショナリズム」と呼ばれます。誰しも生まれ故郷に対する愛情を持っているものですが、故郷を離れて暮らすようになると、故郷への思いが募ります。たとえば長野県出身者が東京で集まっては「信濃の国」を合唱する。広島県出身者は、広島カープの応援歌で盛り上がる、というように。とりわけ海外移民となると、その思いは一段と強くなります。

 ブラジルでは、排日運動の高まりから、邦字新聞が発行できなくなります。多くの日本移民は、ポルトガル語が不自由でしたから、国際情勢を客観的に知ることが困難になっていきます。すると人々は「信じたいことを信じる」ようになる。つまり帝国日本が戦争に勝ってほしいという思いが募ると、「戦争が終わった」と聞いて、「日本が勝った」と思ってしまうのです。

 こうして悲劇が生まれます。戦争に勝った日本の円の価値がこれから上がると言って、敗戦で紙くず同然になった旧円を売りつけるなどの詐欺が相次いだのです。被害者は、もちろん「勝ち組」でした。

 人々は、信じたいことを信じる。フェイク情報が氾濫する現在、ブラジルでの事態は、決して過去の遠い地のことではないのです。

 そんなブラジルで、日本人たちは、どのように懸命に生きたのか。物語は、沖縄で生まれ父の従弟夫婦とともに移住した勇と、祖父の代に移住しブラジルで生まれ育ったトキオ、二人の人生を軸に進みます。日本へ共に帰ることを誓った親友同士の道は、しかしやがて大きく分かれていくことになります。

 まさに灼熱の地で、人々は熱情を込めて生きたことを、著者も熱情を込めて語ります。思わぬどんでん返しもあり、読む者もまた熱くなってくるのです。

新潮社 波
2021年10月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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