あるシャーロキアンの物語、そして父の物語。

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最後の挨拶 His Last Bow

『最後の挨拶 His Last Bow』

著者
小林 エリカ [著]
出版社
講談社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784065240601
発売日
2021/07/07
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

あるシャーロキアンの物語、そして父の物語。

[レビュアー] 伊藤氏貴(明治大学文学部准教授、文芸評論家)

 幼心にホームズの活躍に胸を躍らせ、そこから読書にはまった経験を持つ読者諸氏も少なくあるまい。もし本書のタイトルだけでホームズが思い浮かんだなら、相当なシャーロキアン(ホームズファン)だろう。ホームズ全集も読んだに違いない。

 その主要な翻訳者、小林司が本書の主人公だ。精神科医にして有名なシャーロキアンで、妻、東山あかねと共に、翻訳や関連書籍を多く残した。本書の作者は二人の娘だ。本家の『最後の挨拶』は、ホームズの最晩年を描いているが、こちらは父の生涯を早い時期から辿る。

 一九二九年に生まれ、学徒動員を経験し、精神科医となった父は、ホームズに憑かれたかのように、研究者、翻訳家へと転身する。家庭にはホームズの話が溢れ、子どもはこたつで翻訳をする父の膝の上で、小さな活字が一度父の体に吸い込まれ、鉛筆の先から別のことばになって溢れ出すさまに目を奪われる。そのときその部屋はヴィクトリア朝のロンドンに時空を超えて瞬間移動する。

 そう、これはたんなる評伝でも、純粋な私小説でもない。父についての物語ではあるが、それにしては子の視線、子の思いが充満している。話は直線的に流れず、現在と過去とを行き来するが、そこには子の直接知りえない父の幼少期から、父の知りえない、その死後の物語までもが含まれる。父は二〇一〇年に亡くなったが、翌年の大震災の描写はなにゆえ必要だったのか。

 愛する父は子により書き留められる幸せを死後に得たが、すぐあとに亡くなった夥しい数の人々にもまた家族や知人がいて、記憶され、語られ、いまだに悼まれているのだということを忘れないためにだろう。併載された「交霊」でも、死者を記憶することが主題化されている。

 二作とも、「歴史」という「記録」がえてして塗りつぶしてしまう一人一人の個人を、「記憶」というかたちですくいとろうとする「物語」だ。

新潮社 週刊新潮
2021年10月14日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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