『ベケット氏の最期の時間 LE TIERS TEMPS』マイリス・ベスリー著(早川書房)

レビュー

5
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ベケット氏の最期の時間

『ベケット氏の最期の時間』

著者
マイリス・ベスリー [著]/堀切 克洋 [訳]
出版社
早川書房
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784152100375
発売日
2021/07/14
価格
2,860円(税込)

書籍情報:openBD

『ベケット氏の最期の時間 LE TIERS TEMPS』マイリス・ベスリー著(早川書房)

[レビュアー] 長田育恵(劇作家)

渦巻く自意識 語りの力

 1989年、パリの高齢者養護施設でひとりの老人が最期の時を迎えようとしている。彼の名はサミュエル・ベケット。不条理演劇の代表作であり後世の全演劇人に少なからず影響を与えた不朽の戯曲『ゴドーを待ちながら』の作者だ。とはいえ本書は評伝ではない。ベケットを主人公としながら、史実と彼の著作を元に、作者が想像力を駆使して描きだした小説である。同時に、ある人間が死を迎えるまでの半年間の軌跡を描き出す、普遍的な作品でもある。

 本書の最大の魅力は、ベケットの自意識という声が物語る、語りの力にある。心の中に絶えず渦巻く自意識は、老衰によって身体の自由を奪われたからこそ、どこまでも闊達(かったつ)で、諧謔(かいぎゃく)精神に富み、だらしなく止めどもない。精神の声は時間にも囚(とら)われない。現在の時が指の間から砂のように零(こぼ)れ落ちてしまうのに、過去はいつまでも鮮やかで、老人を容易(たやす)く飲み込む。『ユリシーズ』を著したジェイムズ・ジョイスとの分かちがたい友情やわだかまりを抱えていた母のいる情景などがすぐ傍らに漂っていて、自意識は現実と記憶のグラデーションを揺蕩(たゆた)っている。

 その語りのリズムを、看護師や医師らの業務日誌が断ち切っていく。食事のメニューやリハビリの内容、老人が何を食べることが出来たかなどの経過観察が、客観性と一般的な親切心を以て書き綴(つづ)られていく。入浴作業ひとつとっても、業務日誌ではほんの数行で済むことが、老人にとってはどれほどの自意識の旅を必要とするか、その対比のリアリティに胸を突かれる。

 本書は三部構成で、第一の時から第三の時へと刻まれているが、最期が近づくにつれ自意識の速度が上がっていくのが印象的だ。もはや喋(しゃべ)れず誰にも届かない内なる声は、やがて来る沈黙に立ち向かい続ける。ベケットが書いた『ゴドー』は登場人物たちが死を待つ物語だった。その作者自身が最期にどう向かうのか。小説だからこそ描き出せる姿がある。堀切克洋訳。

読売新聞
2021年10月8日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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