『地上で僕らはつかの間きらめく』
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歴史の上にこだまする傷ついた者たちの記憶
[レビュアー] 岨手由貴子(映画監督)
愛された記憶と、拒絶された記憶。地上で起こる美しい事象と、あらゆる蛮行─。そんな相反する要素が結びつき、膨大なイメージの蓄積によって語られるこの小説は、ひとりの青年の成長譚でありながら、それにとどまらない重層的な物語を描きだしている。
本作はアメリカで育ったベトナム系移民である著者オーシャン・ヴオンの自伝的な小説である。少年期、青年期、そして作家となった現在までが章立てられ、「母へ宛てた手紙」という体裁で綴られているのだが、冒頭で母は英語が読めないことが明かされる。つまり、これは読まれることのない手紙なのだ。
サイゴン(現ホーチミン)で生まれ、幼い頃に母と祖母とアメリカに渡ってきた「僕」の少年時代を描いた第一章では、コネチカット州ハートフォードでの貧しい暮らしぶりが語られる。言葉を話せないことで受けた差別やいじめ。そして、母からの暴力。「僕」は学校や家庭の“内側”で傷つき、“外側”に出るための鍵となる英語を習得していく。
そして“外側”の世界が描かれる第二章、一四歳になった「僕」は街のはずれにあるたばこ農場でアルバイトを始める。不法移民たちと働きながら、そこではじめての恋をする。相手は農場の経営者の孫であるトレヴァーという少年だ。彼は酒浸りの父親とトレーラーハウスで暮らす貧しい白人で、薬物中毒者だった。「僕」はトレヴァーと過ごすなかで恋情と快楽を経験し、自分がゲイであることを自覚するようになる。
ニューヨークの大学に進んだ「僕」が街に戻るところから始まる第三章は、愛する人を失った「僕」が、弔うように彼らを思い出す時間が描かれる。
こうして三つの時代を横断しながら「僕」の物語が綴られていくのだが、同時にいくつかの物語が重ねられる。ベトナムでもアメリカでも居場所を見つけられず息子に手を上げた母、軍人相手の売春婦として戦時下を生き抜いた祖母、男らしさの呪いと薬物に苦しんだトレヴァーの物語だ。別個に存在する彼らの物語は、どれもアメリカという国の、歴史の断片である。
悲しみと幸福のモンタージュからなるこの“読まれることのない手紙”は、いわば一方通行のコミュニケーションで、「僕」が交わしてきた母や祖母、トレヴァーとの会話に似ている。彼らとのやりとりはスムーズなキャッチボールとはいかず、「僕」は受け止めきれなかったボールに耐え、受け取ってもらえなかったボールを見つめてきた。だが、「僕」と彼らは分かり合えなかったわけではない。言葉よりも雄弁だった彼らの視線が、匂いが、触れたときの感覚が、「僕」の記憶に残っている。それは誰にも奪うことができない個人の歴史だ。それを証明するように、彼らはボールを投げる。
キャッチされなかったボールは跳ね続けて、世界のどこかで反響し合う。そんな形而上の営みが物語全体を浮遊し続け、地上できらめくあらゆる存在を肯定する。とても感動的で、壮大な作品だ。