『天路』
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「私は、どうしたらいいのか」天がすぐそこにある異国での問い
[レビュアー] 大竹昭子(作家)
生まれ落ちた英語の大陸から、島国に渡り、日本語で自伝的な小説を書いてきた作家である。旅が好きで、これまでも住んでいる「新宿の部屋」から、中国の都市を繰り返し旅してきたが、四つの連作からなる本書では、大陸のさらに奥、チベット高原を漢民族の友人の車で走る。
果てしなく続く高原、ヤクの群れを連れた遊牧民、五体投地しながら寺院を目指す巡礼者。読めない「蔵文」(チベット文字)に囲まれ、薄い空気を吸ううちに、地上の時間は遠のいていく。
意識の底から浮上してきたのは、「息子が島国に渡って『文学』に身を投じたことを、最後まで理解できなかった」母の死だった。漢民族の友人がその死を「不在」と漢語で表現したことに、「こんなときにそんな言い方をするのか」と驚く。
「母国をいくら旅立っても、異国の中でいくら生まれ変っても、結局は一度も旅立ったことのない人と同じように、いつかは何語かでこのような言葉を聞くようになる」
言葉の旅人でもあった主人公が、これ以上先に進めない言葉の終着点にたどりついてしまったかのような、胸を突かれる表現だ。
「私は、どうしたらいいのか」という内なる問いが、訪れた寺院でよみがえってくる。「蔵文」の書かれたマニ車を廻し、輪廻を念じて唱える真言の声に包まれ、自らもそれを口にするうちに、その問いから解き放たれてゆく。
都市で目にするものがほとんど存在しない広大な高地もまた、旅人には「不在」の土地として映ったはずだ。そのような場所で連綿と続けられてきた人々の暮らしと、信仰の深さと、天がすぐそこにある風景の描写。それを読むうちに、むしろ「不在」の感覚に癒されるのを感じた。日本語、英語、漢語でなされる自問自答と蔵文との遭遇が奏でるポリフォニーもすばらしく、寡作な作家だが、待った甲斐のある読書体験だった。