『笹まくら』
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徴兵忌避者が全国各地を逃げ切っていく
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「旅」です
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これほど真剣で命がけの旅はない。といっても辺境への旅ではない。日本各地を旅する。それでいて危険と隣り合わせになっている。
丸谷才一の一九六六年の長編小説『笹まくら』。題名は旅とか旅先でのはかない恋といった意。
主人公は東京の私立大学の職員で、平凡な暮しを送っている。しかし、彼には重大な過去の体験がある。
昭和十五年の秋から二十年の秋まで徴兵忌避者として生き続けた。あの時代、二十代の青年が五年間も警察や憲兵の目を逃がれて逃避行を続けた。奇跡に近い。
彼は東京の医者の息子。兵隊にとられる前日に東京駅から列車に乗って逃亡する。以後、逃げ続ける。
北海道から九州まで。各地を転々とする。憲兵がいそうな大都市は避ける。といって山のなかでは仕事が出来ないから地方の小都市を辿ってゆく。
仕事ははじめラジオや時計の修理だったが砂絵屋に会って自分も始める。
紙に糊で鳥や花の絵を描きそれに砂を流すと砂が糊にくっついて絵になる。小学校の校門や縁日で子供を相手に商売をする。
アウトサイダーだから世間から身を隠しやすい。とはいえ徴兵忌避者は逮捕されたら死刑か、危険な戦場にやられる。その恐怖と戦いながら逃亡を続け、みごと終戦を迎える。
モデルは一説に丸谷才一と『ユリシーズ』を訳した永川玲二というが、フィクションと考えた方がいい。兵隊経験のある丸谷才一には逃亡が夢だったのだろう。