弁護士・亀石倫子が紹介 今の自分を形成する重要な本3冊

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後ろ暗さを抱えながら

[レビュアー] 亀石倫子(弁護士)

刑事訴訟法の再審手続きの法改正や、大麻取締法の改正を呼びかけている弁護士・亀石倫子さんが紹介する新潮文庫3冊。

亀石倫子・評「後ろ暗さを抱えながら」

 弁護士になった二〇〇九年から六年間、刑事事件の弁護を専門にしていました。警察署や拘置所に出向き、犯罪をおかした人や、犯罪をおかしたと疑われている人と、一枚のアクリル板を挟んで対峙します。それまでの人生では会ったことのない、さまざまな人と向き合いました。ヤクザの組長、薬物依存症者、人を殺した人、他人の家に火を点けた人……。

 弁護人の私は、彼らから信頼されなければなりません。私はあなたの味方であり、あなたの味方として活動する。その前提を共有し、何でも打ち明けてもらう。そんな関係を築かなければ、真実に辿り着くことはできません。彼らを犯罪に向かわせたかもしれない悪意や憎しみ、暗い感情とは一体何なのか。『掏摸』で初めて中村文則さんの作品を読み、徹底的に「彼ら」の側から語られる作品世界に強く惹かれました。『悪意の手記』も、親友を殺した青年の視点で書かれます。

 本作には人間の感情の計り知れなさ、複雑さがそのままの形で描かれています。人と人との関係において「わかったような気になる」ことが往々にしてあると思うのですが、他人の行動原理など、本来はそう簡単に理解できない。自分には理解できないかもしれないけれど、とにかく虚心坦懐に彼らの話に耳を傾ける。刑事弁護人として働いた六年間で次々と読んだ中村作品が、そんな基本姿勢を支えてくれたような気がします。

 人間が抱える心の闇、後ろ暗い部分から目を逸らさずにいたいという思いの原体験は、中学一年生の頃に出会った『人間失格』です。幼い頃から内向的で暗い性格だった私は、本当の自分と社会に適応しようとする外向きの自分とのギャップに悩み続けてきました。この小説と出会ったことで、そんな自分を丸ごと肯定できたように思います。人間とはそういうものなのだ、と。本作を読んで、そんな安心感をおぼえた方も多いのではないでしょうか。

 当時、小樽の中学校に通っていましたが、将来は東京の大学に行きたい、そのためにはとにかく勉強しなければ、と頑張っていました。念願叶って、東京女子大学に入学。憧れのキャンパス・ライフの始まり……のはずが、地獄のような暗黒の四年間になりました。新歓コンパのノリが「無理」でサークルには入れず、それならばアルバイトを!と思ったのですが、ピザ屋のアルバイトは試用期間終了とともにクビ、コンビニと家庭教師は面接すら通らない始末。「コンビニのバイトに落ちるって、すごいね……」と言われました。どこにも居場所がなく、ひたすら孤独な日々。そんな私に残されたのはまたも勉強しかなく、現代アメリカの作家レイモンド・カーヴァーの研究にいそしみ、卒論では学内の賞もいただきました。すべては「孤独」のなせる業です。

 カーヴァーが愛読していたというきっかけでチェーホフも読むようになりました。『かわいい女・犬を連れた奥さん』に収録されている「中二階のある家」は特にお気に入りの短編です。

 風景画家が地主の家の姉妹の妹ミシュスと恋仲になるも、画家を嫌う姉リーダに妨害されるという話ですが、私にとっては切ない恋愛小説ではなく、チェーホフの内面の葛藤を表現した作品として心に残りました。労働を分配し、人々が豊かに生きるために芸術が必要だと主張する画家と、村に診療所を作るために奔走する姉は、社会運動に身を投じつつも、それは正しいのかと懊悩するチェーホフ自身と重なるのではないでしょうか。

 そんなふうに感じるのは、私自身が社会を変えるための活動に関わることが増えてきたからかもしれません。今は、刑事訴訟法の再審手続きの法改正や、大麻取締法の改正を呼び掛けています。そういった活動への自身の取り組み方に、一片の疑いも迷いもないかといえば、そうではありません。当然、葛藤もあります。

 そんなとき、「中二階のある家」で画家を愛してくれた妹ミシュスのような存在がとても尊いのです。自分を理解し、肯定してくれる存在。大学生で読んだときには、「ミシュス、きみはどこにいるのだろう」というラストの一文で、自分の孤独感が浮き彫りになったようで、涙腺が崩壊したかと思うほど泣いてしまいました。今はもう泣きはしませんが、変わらずミシュスを求め、そして誰かにとってのミシュスになれたらとも思うのです。

※[私の好きな新潮文庫]後ろ暗さを抱えながら――亀石倫子 「波」2021年11月号より

新潮社 波
2021年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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