帝国ホテル「靴磨き職人」の自伝に学ぶ“これぞ嗜み”

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

シリーズ匠は語る シューシャイン一筋 キンちゃん

『シリーズ匠は語る シューシャイン一筋 キンちゃん』

著者
キンちゃん [著]
出版社
株式会社小林小屋
ISBN
9784910640006
発売日
2021/07/31
価格
1,999円(税込)

帝国ホテル「靴磨き職人」の自伝に学ぶ“これぞ嗜み”

[レビュアー] 小林哲也(帝国ホテル特別顧問)

 一つのことを極めると、人はここまで「本質」を淀みなく、また明瞭に語れるものなのか。

 この本には、帝国ホテル本館の地下1階で50年以上靴を磨き続けるシューシャイナー「キンちゃん」のすべてが収められている。

 書評を頼まれるのは初めてのことだが、早速、表現に困っている。なぜなら、娯楽本、哲学書、自伝、ノウハウ本、啓発本など、本のジャンルは世に数多あれど、ここまで一冊にそれらがまとまっている本には滅多にお目にかからないからだ。

 キンちゃんが彼の常連客でもある小林哲也氏(たまたま私と同姓同名)から持ちかけられたのは「自伝」の出版らしいが、読んでいただければその意味が分かるはずだ。読み始めると一気に引き込まれる。考えさせられ、笑わされ、学びを得る。そこで、冒頭の問いとなる。

 他の追随を許さない靴磨きの腕はさることながら、映画や音楽への造詣にも舌を巻く。殊に映画の話になると、まるでその名シーンが蘇るかのように朗々と語り、その場を飽きさせることがない。私がお気に入りの『カサブランカ』をお題に挑むも、文字通り「足下」にも及ばない。“君の知識に完敗”だ。一方で、客のプライベートな話に踏み込むような野暮は決してしない。その一線が心地よい。靴を愛する客の中には、履く前の新品の靴を磨いてほしいと持ち込む紳士もいるほど。

 私が思うに、キンちゃんは「嗜み」の達人だ。「嗜む」という言葉を辞書で引くと、(1)好んで親しむ。愛好する。(2)好んでそのことに励んでいる。(3)つつしむ。(4)見苦しくないように整える。――などとある。映画と音楽をこよなく嗜み、天職ともいえる仕事を嗜み、分をわきまえて己を嗜み、目の前の客の身なりをも嗜む。

 私自身仕事柄、「身嗜み」が商売道具なだけにこだわりがあるつもりだが、それを匠に語らせれば、その本質に気付かされるのだ。身嗜みとは単に身なりだけを指すのではない。キンちゃんは靴を通して、心を磨き、男を磨いてくれる。目の前に座った者ならば誰もが感じるはずだ。そして彼の集大成ともいえるこの本は、その人柄と生き様を晒して人生の磨き方まで諭してくれるのだ。これは決して大げさではない。

「『有難う、栄養を十分にもらったよ』と革が囁くのが分かるんですよ」が彼の口癖だ。匠には本当に聴こえるのだろう。

 書評になり得ていないことに対するお咎めは、素人に依頼した新潮社に願いたい。

新潮社 週刊新潮
2021年11月18日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク