中年を過ぎてから未知の言語を学ぶ歓び
[レビュアー] 梯久美子(ノンフィクション作家)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「旅」です
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今いるところから別の場所へと移動するだけが旅ではない。外国語という言葉の森に分け入ることも、ひとつの旅であることを教えてくれるのが、茨木のり子の『ハングルへの旅』だ。
「自分の感受性くらい」「倚りかからず」などの詩で知られ、戦後を代表する詩人のひとりである茨木は、50歳を目前に韓国語を学び始めた。1976年のことで、韓国は軍事政権下にあった。韓国語を習う人はまだ少なく、教える場所も限られていて、最初は朝日カルチャーセンターの「初級朝鮮語講座」に通ったという。
全編にあふれているのは、新しい言葉を学ぶ歓びだ。長く言葉をなりわいとしてきた詩人が、未知の言語に出会い、その文字の面白さ、音の美しさに魅せられていく。ハングルが編物の記号に似ていることに気づいたり、韓国語を話す男性たちの声と発音を「きわめてセクシィ」と感じたり……。
刊行は86年で、韓流ブームなど影も形もなかった時代だが、この本によって、韓国語を習う人が増えたという。
茨木は何度も韓国を訪ねていて、旅の話もたくさん出てくる。70年代の韓国を日本人女性が一人で、それもソウルだけではなく地方にも足を延ばすというのは、勇気のいることだったらしい。だがそんなことを感じさせない、軽やかな好奇心が文章に息づいている。
中年を過ぎてからゆっくりと「外国語への旅」に出かけるのも悪くないかも、と思わせてくれる一冊だ。