暗闇を通じてしか見えない希望がそこにある――「いじめ」を題材にし、「いのち」を描く社会派青春ミステリ

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チグリジアの雨

『チグリジアの雨』

著者
小林 由香 [著]
出版社
角川春樹事務所
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784758413954
発売日
2021/10/15
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

小特集 小林由香『チグリジアの雨』刊行記念

[レビュアー] 青木千恵(フリーライター・書評家)

「いじめ」という容易に解決することのできない現代の病巣を鋭く見つめた、小林由佳さんの新作『チグリジアの雨』(‎角川春樹事務所 刊)。その読みどころを書評家・青木千恵さんが語る。

 ***

 本書は、「いじめ」を題材にした青春ミステリだ。東京の進学校に通っていた成瀬航基は、母の再婚で田舎町に越し、一年生の二学期から町の高校に転入する。学校生活は順調だったが、ある日突然、いじめのターゲットにされてしまう。男子四人に服を脱がされて動画を撮られ、「変態ごっこ」と称してクラスメイトの前で全裸を強要される。エスカレートするいじめに追いつめられた航基は自殺を考え、地元で『ゴーストリバー』と呼ばれている河に行く。その時、ほとんど学校に登校せず、特異な存在だったクラスメイトの月島咲真に声をかけられる―。

 社会問題として「いじめ」がクローズアップされるようになってから、もうどれくらい経つだろうか。世間を揺るがした「大津市中二いじめ自殺事件」の男子生徒が自殺したのは、十年前の二〇一一年十月十一日である。社会を映すようにして、「いじめ」を題材にした小説はいくつも書かれてきた。新たに生まれた本書は、著者の「社会派」の持ち味が存分に発揮されつつ、青春と友情、生と死といった多彩な要素が盛り込まれた青春ミステリである。

 本書の特色を挙げると、まずはいじめ被害者である十代の少年、航基の視点で描かれた青春小説である点だ。著者は『救いの森』(二〇一九年)でもいじめや児童虐待、子どもの自殺問題を題材にしたが、“児童救命士”の奮闘を描いた『救いの森』と本書は手法もテイストも大きく違う。本書は青春小説の風味が強く、切なさを覚える味わいだ。

“希望ある未来へ! 一人ひとりが輝ける学校。”という横断幕を掲げる高校で、航基はいじめられ、「今」が苦しくてたまらない。〈小学生の頃は戦隊モノが好きだった。けれど、今は大嫌いだ。この世界にヒーローなんて存在しないから。それなのに夢を持たせるような安っぽい物語を創る大人は、みんな偽善者だ〉。東京の進学校で落ちこぼれ、むしろ喜んで越した田舎町でも「蔑み」の対象にされてしまった。まだ十代で打開策がなく、継父と暮らし始めたばかりの『家族』に打ち明けられない。〈虐めをしている側は、何ひとつ傷つかず、やられた側の環境はどんどん腐っていく。弱い者は、もっと弱い者へと攻撃対象を変えていくのだ〉といじめの構造を見据え、揺れ動く十代の心理描写がリアルで、読みどころである。

 いじめに苦しむ主人公の心理ばかりだと重くなるが、本書には“ヒーロー”が登場する。ミステリアスな少年、月島咲真の存在により、独特の魅力があるエンターテインメント・ミステリとなっている点も特色だ。

『ゴーストリバー』で航基と「出会う」咲真は、色白で儚げで、幼い女の子が好むようなクマのぬいぐるみを抱えた少年である。咲真は街に連れ出した航基にとあるミッションを課し、その後、「いちばん恨んでいるクラスメイト」を尋ね、「これから、一緒に復讐しない?」と持ちかける。どんな復讐をしようというのか? 咲真との出会いから物語は大きく展開して、航基も読者も「どうなるの?」と引き込まれる。咲真の正体、継父のセクハラ疑惑、娘を虐待する女性の殺害事件など、謎と事件が絡み合うミステリである。クラスでは「幽霊」のようなのに、咲真のキャラクターは強烈だ。〈咲真は性格がきついし、よく暴言も吐く。けれど、誰かの色に染まることはないから、近くにいても安心できるのだ。彼が隣にいてくれるだけで心のバランスが整っていくのを感じていた〉。ヒエラルキーに支配され、敵に狙われないために新たな敵を作る人々の負のループに航基はうんざりし、絶望感を覚えた。どこにも属さない咲真は、この社会で稀有な人物なのだ。ただし航基の視点で描かれているから、航基の記憶に残る咲真の言動が“ヒーロー”のすべて。物語をどう読むか、謎と世界の解決策はやがて読者に委ねられる。

 もう一つの特色は、「社会派」小説の醍醐味である。〈もしも、お前が神なら、どんな世界を創った?〉。次々繰り出される咲真の問いと、その都度揺れる航基の心理が共振して、今の社会が浮き彫りになる。

〈お前が死んでも、クラスメイトたちは泣きながら『命を大切にし、成瀬くんの分まで輝いて、これからもがんばって生きていきたいです』って、思いを新たにするだけだ〉。今助けが必要な人がいても見えないふりをし、誰かが死んだら場当たり的に思いを新たにする「鈍感」な人々が作る世界が、素晴らしくなるんだろうか。〈この世界が嫌だと嘆くのは簡単だ。けれど、素晴らしい世界を創造することは思いのほか難しいと気づいた〉。田舎町から、物語はスケール豊かに開かれていく。示唆に富み、社会に一石を投じる作品だ。

 それにしても、〈事件が相次いでも、決して嫌がらせはなくならないし、この世界はなにひとつ変わらない〉のはなぜだろう。十月十三日に文部科学省が公表した調査によると、二〇二〇年度のいじめの総認知件数と、生命、心身または財産に重大な被害が生じた疑いがあると認める「重大事態」は、過去最多だった前年度より減っている。だが、パソコンや携帯電話を使ったいじめは増えている。二〇年度に自殺した児童・生徒は四百人を超え、小学生が七人、中学生が百三人、高校生が三百五人だった。子どもの自殺は、小中学生の不登校の人数とともに過去最多となっている。

〈苦しんでいる人間が増えるたび、世界中に紫色の雨が降るんだ〉〈そのとき人間は、ようやく気づくんだ。『今は苦しんでいる人が多い時代だ』って〉

〈俺が神なら、雨に色をつける〉。月島咲真は、成瀬航基にそう言った。

 今苦しんでいる人の心と「真実」を見つめ、「いのち」を描く。いろんな世代に読んでもらいたい、優れた青春ミステリだ。

 この物語そのものが、まさに「チグリジアの雨」なのだと思う。

協力:角川春樹事務所

角川春樹事務所 ランティエ
2021年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

角川春樹事務所

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