『父のビスコ』平松洋子著(小学館)

レビュー

7
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父のビスコ

『父のビスコ』

著者
平松 洋子 [著]
出版社
小学館
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784093888417
発売日
2021/10/26
価格
1,870円(税込)

書籍情報:openBD

『父のビスコ』平松洋子著(小学館)

[レビュアー] 木内昇(作家)

家族と食 思い出の滋味

 滋味、という言葉が浮かぶ。食にまつわる著者の文章に浸っていると、日頃よく味わいもせず口に運んでいる食事が途端に奥行きを持つようなのだ。微妙な風味や食感を細やかに伝える描写に、感嘆の息をつく。自身の家族を食の思い出と共に描いたこの随筆は、その豊かな世界観をいっそう濃くしたものに感じられる。

 生まれ育った岡山県倉敷での暮らしの事々。父母や祖父の目を通して語られる戦争の記憶。昭和13年、十歳にして単身船に乗り、満州まで旅をした(!)父は、いっとき画家を志していたほどの美術好きで、近所の倉敷民藝(みんげい)館に足繁(しげ)く通った。その父が晩年、久方ぶりに鰻(うなぎ)を食したときにつぶやいた感慨に胸を衝(つ)かれる。幼かった母が終戦を迎えて口にした金平糖の思い出、兵隊にいった祖父が戻った折に祖母が水筒に注ぎ入れた酒。印象深い家族の逸話は、取り上げる料理や菓子への綿密な取材と考察によって普遍的な広がりを見せる。同時に、戦中から戦後にかけて生きた市井の人々の、「食」と「生」との密接で切実な繋(つな)がりを想起させる。

 本書に収録された「旅館くらしき」の女将(おかみ)による随筆や、えびす通商店街にある食堂「かっぱ」を、ずば抜けた料理の腕を持つ先々代から引き継いだ店主・敬子さんの奮闘に、この地に生きる女性たちのたおやかな強さも思う。

 倉敷民藝館初代館長・外村吉之介の言葉、「日常の生活に役立つように材料や手法を吟味して誠実な仕事をする」ことで、「健康で無駄のない美しさが宿る」という真理は、そのままこの随筆集を表している。家族の胸の内を覗(のぞ)くのは、近しいからこそ気恥ずかしい。いつでも訊(き)けると安穏と構えるうち永遠に機会を失ってしまったりもする。著者は父母と語らい、自らを育んだものを感情に拠(よ)らず、吟味し、選(よ)りすぐった言葉で紡いだ。生み出されたのは情感豊かな物語だ。日々を「味わう」ことに手を抜かずに生きた者の、美しい軌跡がここに宿っている。

読売新聞
2021年12月3日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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