『J・M・クッツェーと真実』
書籍情報:openBD
J・M・クッツェーと真実 くぼたのぞみ著
[レビュアー] 中村和恵(詩人・明治大学教授・比較文学)
◆多様性のルーツに肉薄
J・M・クッツェーについて詳細に、同時にわかりやすく書く、という離れ業を本書はやってのける。この南アフリカ出身のノーベル賞作家に「中毒」というほど熱中してきた著者は丹念に作家の足跡を追い、翻訳の作業を通して深く作品内部に入りこんでいく。読者は翻訳者の足どりをたどることになる。
たとえばカラードという語の南ア独特の意味、クッツェーという名の発音、そんな単語ひとつのことも、一筋縄ではいかない。複雑に交錯する歴史、所属集団ごとの認識の違いを、文献で調べ、旅先で訊(き)き、作家本人に尋ねて、著者は正確に知ろうとする。物語と語り手の姿を、正確にとらえるために。その熱意には個人的な背景もある。北海道入植者の子孫である著者自身の、故郷の地と先住者への思いが、巻末に綴(つづ)られる。
必然的にこの本は、南アフリカについての本でもある。アパルトヘイト時代の南アは黒人から移動の自由を奪い、肌色の異なる人々の結婚を禁じ、格差という言葉が生ぬるく思えるほどの暴力的差別を国家の政策とした。この体制は終焉(しゅうえん)したが、変化には激しい暴力と混乱が伴った。この国に生まれ育ち六十二歳までを過ごしたクッツェーには、一貫して鋭い批判精神と倫理的な問い、痛みを抱えた身体の感覚がある、と著者はいう。
英語作家でありながら、クッツェーは「英語が自分の言語だと思ったことはない」という。彼の祖先はじつはイギリスとは無縁なのだ。多種多様な先住の民に、数々の土地からの移住者、複数の植民地支配者が加わった、南アフリカ言語文化の驚くべき多様性が、作家の根にある。現在はオーストラリア在住だが、やはり彼は南アの作家なのだ。
クッツェーのほかにもベッシー・ヘッドやチママンダ・ンゴズィ・アディーチェ等のアフリカ作家たちを翻訳してきた著者にクッツェーは「どうやって食べているのですか」と訊(たず)ねる。思わず笑い、同時に考えこんでしまうエピソードだ。あの大陸にはまだまだ、語られるべき物語、読まれるべき話がある。
(白水社・2970円)
1950年生まれ。翻訳家、詩人。著書『山羊と水葬』など。
◆もう1冊
J・M・クッツェー著『J・M・クッツェー 少年時代の写真』(白水社)。くぼたのぞみ訳。