ジェンダー問題の理解はまだ道半ば

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ジェンダー問題の理解はまだ道半ば

[レビュアー] 長谷川眞理子(進化生物学者、総合研究大学院大学学長)

先日、偶然にも私は、ある雑誌に連載しているエッセイの中で、「男性脳と女性脳」などと言ったものがあるわけではない、と書いた。性によって異なる反応が出る脳機能はあるが、個人の脳の働きは、いろいろなもののモザイクなのだと述べたのである。本書は、まさにそういうことを正面から取り上げて論じた本だ。脳科学や心理学の研究成果を吟味し、新たな主張をかかげる、示唆に富む内容である。
私自身、日本の社会に横行する女性差別に困らされてきたし、女性か男性かでいろいろな区別をしようとすることに反感を持ってきた。だから、著者の主張するところには賛成する部分が多い。が、それと同時に、言いたいこともたくさんある。

「性差はある、それが消えて無くなることはない。でも、女脳と男脳というものはない」という主張に対し、言わんとするところはわかるのだけれど、もう少し踏み込んで何か言って欲しい。『話を聞かない男、地図が読めない女』という書物がベストセラーになったのは、二〇〇〇年だった。ほかにも、男性と女性の脳の働きの違いを説明した脳科学の本は、これまでに山ほど出版されてきたが、著者によると、それらの書物の内容にはすべてバイアスがかかっていて、真に中立な前提や手法によってなされた研究紹介ではないということだ。
研究者自身も、社会の中で暮らす人間なので、無意識のうちにジェンダーバイアスに侵されているには違いない。しかし、これらの書物がベストセラーになるおもな理由は、この社会で男性と女性が、相手の性の態度や心理に対して感じる「わからなさ」を、ある意味すっきりと説明してくれるからではないか。とくに女性が男性に対して抱いている「わからなさ」、「どうしてあなたはこうなのよ」という鬱屈した怒りに対する説明である。こうした書物の読者が求めているのはおそらく、著者が主張するような、「現状を肯定する科学的裏付け」ではないと思う。そうではないのだが、「わからなさ」に対する説明が、結局、現状を納得してすっきりし、あきらめの境地に入るよう促すことにつながるのでよくないのだろう。

性差は存在するが、「男脳、女脳」はない。では、著者が指すところの「男脳、女脳」とは何か。著者は、脳のいろいろなところに、男性によく反応が見られるところと、女性によく反応が見られるところがあるが、男性だからといって、それらの部分すべてで男性的な反応を持ち合わせている人はいない。女性もしかり、ということで、「男脳、女脳」はないと言う。私もその通りだと思うのだが、人々が問題にしている脳の性差とは、性差がある個別の部分だけの話なのではないか。そして、平均して性差が出てくる部位とその機能について、なぜそうなっているのかが知りたいのだろう。
しかし、本書には、集団として性差のある部分が、なぜそうなるのかの説明はない。集団間に性差はあるとしながらも、その差よりも、女性どうし、男性どうしの間の個体変異の方が大きく、全体として、女性と男性で重なる部分の方が多いと主張する。それは、どんな集団間の平均値の差についても言えることだ。女性と男性でまったく重なる部分のないような分布は滅多に存在しない。しかし、わずかであれ集団間の差異があれば、それがなぜ生じるかもまた、説明せねばならない。そこが進化生物学の出番なのだが、著者はあえてそこには踏み込まないようにしたのだと推測する。それは、進化生物学者として非常に歯がゆい。

脳は可塑性(かそせい)の高い組織である。それは、脳が何をしているのかを考えれば当然だろう。脳とは、個人が置かれた状況に応じて、さまざまな情報を取捨選択して統合し、何らかの意思決定をする臓器である。そして、ヒトは、女性も男性も同じ社会で暮らし、さまざまな共通の課題に日々直面している。そして、かなり長寿であり、年月とともに状況が変わる。情報処理プロセスの可塑性が高くなければ、高度な働きをして役に立つことなど不可能だろう。そして、文化が作り出しているジェンダーの概念は、ヒトにとって非常に重要な「環境」なので、ヒトはそれにも適応するように脳を働かせているのである。だから、文化環境とヒトの脳の働きは、切り離せない。しかし、そもそも、文化によるジェンダー概念は、どのようにして作られたのだろう?
第19章からのジェンダーフリー社会の実現については、かなりラディカルな主張であり、抑圧されてきたことにずいぶんと怒っている女性たちであっても、全面賛成しないかもしれない。どうして賛成できないのか、その違和感の内容を丁寧に解きほぐしていく必要がある。そうやって冷静に見ていくことによって、性とジェンダーの区別についても、その二つの間のどうしようもなく複雑な関係についても、現在の社会の状況についても、自分自身のあり方を含めてよりよく知り、再考できるようになると思う。みんなで輪読でもしながら、互いの考察を深めて議論するのに、格好の材料となる本だ。

長谷川眞理子(進化生物学者)

紀伊國屋書店 scripta
no.61 autumun 2021 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

紀伊國屋書店

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