核抑止のディレンマに苦悩する西ドイツ――『核の一九六八年体制と西ドイツ』を読む

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核の一九六八年体制と西ドイツ

『核の一九六八年体制と西ドイツ』

著者
岩間 陽子 [著]
出版社
有斐閣
ジャンル
社会科学/政治-含む国防軍事
ISBN
9784641149335
発売日
2021/08/04
価格
4,400円(税込)

書籍情報:openBD

核抑止のディレンマに苦悩する西ドイツ――『核の一九六八年体制と西ドイツ』を読む

[レビュアー] 土山實男(青山学院大学名誉教授)

 冷戦終結の少し前にブルッキングス研究所が出版したManaging Nuclear Operations(Ashton B. Carter et al., 1987)に掲載されているキャサリン・ケラーの論文を見て驚いたことがある。というのは、1980年代に入ってもなお西ドイツにはランス短距離弾道ミサイル、パーシング準中距離弾道ミサイル、そして戦術核などが各地に配備されている地図が載っていたからである。西ドイツにはピーク時に3000発を越える核があり、80年代になってもまだ2500発以上があった。米施政下の沖縄には大陸に向けた中距離核ミサイルメースBを含む約1300発の核があったが返還時には全て撤去されたことを考えると、J.ボウトウエルが書いたように、西ドイツはまさしく核時代がつくった国で、もっとも深刻な核抑止のディレンマに苦しんだ国と言えるだろう(Jeffrey Boutwell, The German Nuclear Dilemma, 1990)。

 核には多くの問題がある。まず、核を国際政治にどう位置付けるか。核は爆弾として2度使われたが、そもそも核は兵器たりうるのか。核を敵に使わせないためには、つまり核抑止をするには、自分に核を使うつもりがなければ抑止は効かないというパラドックスがある。米大学やRANDで論じられてきた核戦略と軍との間には考え方に微妙なズレがあったし、米国とその同盟国との間には拡大抑止(核の傘)の問題がある。たとえば同盟国を核攻撃から守るために米大統領は米国民の命を犠牲にすることができるのか、米国が核を使う際に同盟国がノーと言える事前協議制度を設けることは可能か、あるいは同盟国との核共有はできるのかという問題である。また核と通常兵器のいずれを優先すべきかという問題もある。1950~70年代に第一線の国際政治学者がこれらの問題に取り組んだ。戦略論からアプローチした者が多かったが、意思決定、地域、歴史からの取り組み方もある。M.トラッチェンバーグのA Constructed Peace(Marc Trachtenberg, 1999)やThe Cold War and After(2012)はドイツを軸にヨーロッパの核問題を考察した優れた戦略史で、これらの研究とも重なるが、岩間陽子氏の新著『核の一九六八年体制と西ドイツ』を読むと、核の問題は西ドイツの政治外交のコンテクストから理解するのがもっとも分かりやすい気もする。本書は西ドイツ首脳の政治判断をもとに西ドイツの対米英仏ソ政策を歴史的に俯瞰していて、説得力がある。

 いま挙げた核の問題を本書が述べている西ドイツの政治外交に即して考えてみよう。2度も世界大戦を引き起こしたドイツは、第二次世界大戦後は米ソの力が衝突する場になって国が分割され、東西両ドイツを境にNATO北大西洋条約機構とWTOワルシャワ条約機構とが対峙する臨戦体制の真っただ中に立たされた。しかし「米国のコミットメントの象徴」だった「共産主義という海に浮かぶ陸の孤島」西ベルリンを通常兵力で防衛することが不可能だったこともあり、西ドイツへの攻撃を抑止するには米ソ核戦争にエスカレートする戦略をとるしかないと考えられた(本書4頁)。米国、特にアイゼンハワー政権が大量報復戦略をとり在欧米軍の削減を考えたことや、欧米各政府の財政事情が逼迫したことも核への依存を強めた。

 こうして、西ヨーロッパ防衛が核依存に傾き、米国の核が欧州に搬入されるようになる。本書によると、1953年には通常弾頭と核弾頭の双方が搭載可能なM-65火砲が西ドイツに配備され、翌年にはイギリスに最初の核爆弾が、55年には西独にも核が配備された。54年9月には戦術核を用いたNATOの演習が、55年の6月には西ドイツを戦場にした演習が実施されている。55年に西ドイツが主権を回復してNATOに加盟し、その年12月にNATO北大西洋理事会は核兵器の使用を大幅に取り入れた戦略文書MC48を採択した。

 本書はこのMC48に注目している(本書61~62頁)。欧米でもMC48に注目した研究者はJ.ダフィールドなどわずかで(John S. Duffield, Power Rules, 1995)、日本ではMC48を重視した研究をほとんど見かけない。トラッチェンバーグによれば、MC48はNATOがソ連側に先に核攻撃をしかける戦略で、後のNATO運営に大きい影響を与えたという。が、問題はこの戦略をどう実行するかだった。6月の演習でも戦場となった西ドイツでは百数十万人の死者が出る結果になったそうだから、この戦略に賛成する西ドイツの世論は15パーセントしかなく、65パーセントが反対だった(本書64頁)。通常兵力だけでは西ドイツを守れないという現実が一方にあり、しかし核を使えば西ドイツだけでも数百万人の死傷者が出るという現実が他方にあった。この核抑止のディレンマに直面し苦悩したのが西ドイツである。西ドイツに配備する核は米国の核なのか自前の核にすべきなのか、K.アデナウアー首相を含むドイツ首脳は悩んだ。それは自国の安全を自分の手で守れるのかどうかという安全保障の根幹に関わる問題だったからである。

 20年以上前のことになるが、ベルリン自由大学の国際政治学者でISA(世界国際関係学会)の会長もされたH.ハフテンドーン教授が私の研究室を訪ねて来られて日米同盟における核の問題について話し合った際に、日本が核を持つべきかどうかもう一度よく考えるようにと言われたことがある。リベラルスクールのハフテンドーン先生が意外なことを言われるとその時は思ったが、今日でも防衛白書には核の脅威に対して米国の拡大抑止が不可欠で米国と緊密に協力するとだけしか記されていない日本の状況を見ると、核を日本の問題として日本人の頭でよく考えておくように言われたのだろう。本書に自前の核をつくらないことにした西ドイツがその政治姿勢を外交の梃子に積極的に使ったW.ブラントとエゴン・バールの新東方政策という対ソ緊張緩和策について書かれているが、しかし冒頭に書いたように、西ドイツには80年代になってもまだ2500発以上の核が配備されていたのである。しかも、戦術核のほとんどが独仏国境近くに配備されていたことが示すように、それらの大半は西ドイツ国内での核ファースト・ユースを想定していた。

 ここでもう一度MC48採択後のNATOがどうこの問題に対処したかに話を戻したい。NATOの同盟国である英仏独は一枚岩ではなかった。スエズ危機で失態を見せたイギリスは1957年5月に水爆実験に成功し、その2ヶ月前のバミューダでの英米会談で、イギリスからソ連を叩くことができる中距離弾道ミサイル(IRBM)ソーを米国から受け入れることに合意した(翌年に配備、60基)。さらにイギリスは自国の潜水艦に米国のSLBM(ポラリスミサイル)を搭載することにも合意して英米間に核で特別な関係をつくった。当然、独仏はこれに反発した。米は独仏へのIRBM配備も考慮したが、フランスはその米提案を断り、西ドイツへの配備はソ連に近いという理由などから実現せず、結局、イタリア(30基)とトルコ(15基)にIRBMが配備されたが、そのトルコに配備されたジュピターミサイルがソ連をしてキューバにIRBMと準中距離弾道ミサイル(MRBM)などを持ち込ませる原因となった。そのキューバ危機を収拾した米ソにイギリスが加わって部分的核実験停止条約(PTBT)が締結されたが、これは独仏にとっては米ソ英から核の既得権益を突きつけられたようなもので、独仏両国は不信と不満を抱いた。このいきさつについて著者はアデナウアーの対英米不信感にド・ゴールがうまくつけ込んで彼の外交に利用したと書いている。

 ド・ゴールの外交目的は、フランスが失った自尊心や国力を回復し、米国に支配されるヨーロッパではなく「ヨーロッパ人のヨーロッパ」に戻すことにあったとS.ホフマンは解説している(Stanley Hoffmann, Decline or Renewal? ,1974)。ド・ゴールが「自国の生死を他国に委ねるわけにはいきません」とジョンソン米大統領への文書で述べたというが、ド・ゴールにとっては欧州に配備された核の発射の意思決定を米国に委ねることは主権国家として受け入れられないものだった(本書171~172頁)。当時、フランスの核は実際には対ソ抑止力にならないとの見方が強かったが、ド・ゴールは少ないフランスの核でも危機時には米国やソ連に影響を与えることができると考えた。それはP.ガロアが主張していたような核戦略論に立った政策というよりも、むしろフランスの名誉と誇りを取り戻すためのシンボルとして使われた観がある。

 このように、NATOの同盟国とはいえ米、英、仏、そして西ドイツの間には核の役割や戦略に違いがあったし、米国は同盟国だけでなく必要とあらばソ連を相手に協力もしたから、状況が変わるたびに英仏独各国はそれぞれ自国の戦略利益が何であるかをそのつど計算しなければならなかった。各国の計算は核兵器のタイプによっても違ったし、PTBTや核拡散防止条約(NPT)の対応についても違った。イギリスがPTBTやNPTで米に追随すると、フランスはこれらに反対し、66年にはNATO軍事機構から離脱した。核の意思決定に参加できなければ三流国になってしまうという不安を持っていた西ドイツは迷ったが、結局、これらの条約に調印した。本書がそのタイトルにしている「核の一九六八年体制」に西ドイツは入らないという選択をとれなかった。その後も西ドイツは中性子爆弾やソ連のSS20配備を受けたNATOのパーシングIIの配備などの問題が起きるたびに常にヨーロッパの核問題の中心にあり続けた。

 日本では、吉田茂とアデナウアーを並べて論じた大嶽秀夫氏の研究のように、戦後日本と西ドイツを比較して考えることが少なくない。しかし、本書を読んでつくづく思ったのは、核が自国の安全保障にとって何を意味し核問題にどう取り組むかが日本と西ドイツではまったく違うということだ。先に返還前の沖縄に核があったことに触れた。その核は沖縄や日本本土に対する攻撃への抑止の役割もあったが、基本的には中国、ソ連、そして北朝鮮を対象とした核抑止であり、まして沖縄や日本本土で核を使うことは考えられていない。だが、西ドイツの場合は、抑止のためとはいえ、西ドイツ国内での核先制使用を初めから想定せざるを得なかった。それゆえ、核使用の意思決定についての事前協議をめぐる米独間の交渉は、西ドイツにとっては文字通り生きるか死ぬかの問題であり、国家主権の争いだった。NATOが核攻撃を行う場合にNATOは核を所有する米国とミサイルを所管する同盟国双方の合意が必要なdual keyシステムになっていて、たとえばイギリスの場合でも、同国に配備されたソ連を叩けるソーミサイルを発射するには英米双方がそれぞれの鍵を回すと稼働する仕組みになっていた(本書169頁)。

 日米間でも新日米安全保障条約第6条の交換公文に基づき在日米軍が「装備の変更」(核の持ち込み)や戦闘作戦行動を行う場合には事前協議にかけられることになっている。日米安保条約の改定交渉が始まる前に米統合参謀本部は沖縄へのIRBMなどの配備を検討したことがあり、条約改定で導入された事前協議によって日本政府は日本本土への核持込みにノーと言える日本のタテマエを貫くことができ、米国は核を持ち込む米のホンネを担保することができた。言い換えれば、日本から見ると黒に見えるものが米側から見ると白に見えるようになっている。だから、条約改定交渉の際、核を搭載した米艦船や航空機の寄港や通過は事前協議の対象にしないという密約がつくられたし、在日米軍が朝鮮有事の際に戦闘作戦行動に出る場合には事前協議にかけないという密約「朝鮮議事録」がつくられた。1969年の核抜きの沖縄返還を決めた日米首脳会談の際にも、将来沖縄に核を再導入する必要に迫られる場合に事前協議にかけても日本はイエスという密約がバックチャネルを通してつくられた。それらはみな1950年代から日米政府間で繰り返しつくられてきた密約である。日本ではこれら密約の存在の是非とその法解釈をめぐって莫大な労力と時間が費やされてきた。西ドイツの首脳や国民が米政府の核政策をそのまま鵜呑みにしたわけではないにしても、自国が戦場になることを覚悟して核政策を米国を始めとする同盟諸国とつくり常にフロントに立っていた西ドイツと、朝鮮半島などアジアでの軍事衝突を想定していた日本の場合との間には大きな違いがある。本書を読んで改めてこの日独の違いを考えさせられた。

 本書が分析の対象とした時代からすでに半世紀以上が過ぎた。先に、核問題は西ドイツの政治外交のコンテクストから考えるのが分かりやすいと述べたが、東西ドイツが統合しソ連が崩壊した後のドイツ政治外交のコンテクストで考えると、ドイツの抑止・防衛のための核の役割は大きく後退した。1950年代から核先制使用を実際の戦略の中に入れていたNATOの対ソ抑止政策に批判的だったジョージ・ケナンはその頃から核先制不使用を主張していて核に依存する米政策に否定的だったが、国際政治をドイツを軸に見てきたH.キッシンジャーらも、特に冷戦終焉後は、核の重要性は下がったと考えるようになった。しかし、国際対立のフロントがヨーロッパから移ってきたアジアには、核を米ソ欧がつくり上げてきた核の論理では考えない中国や北朝鮮などの勢力がいる。彼らにはこれまでの核戦略が通じないところがある。長年にわたって核戦力の指令制御を専門としてきたP.ブラッケンはこの問題を「第二核時代」の到来と呼んで警告してきた(Paul Bracken, The Second Nuclear Age, 2012)。わが国では日本はこの第二核時代が生む問題の外にいると思われているようだが、実は日本もこの第二核時代の渦中にいるのである。

有斐閣 書斎の窓
2022年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

有斐閣

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