『夏の花・心願の国』
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被爆のメモが原爆文学の名作を生みだした
[レビュアー] 梯久美子(ノンフィクション作家)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「手帳」です
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作家の原民喜は、広島に原爆が落とされたとき、爆心地から1.2キロの生家にいた。便所にいたため無傷で、準備していた持ち逃げ用の雑嚢を肩にかけて避難した。今でいうところの非常用持ち出し袋である。
通帳と印鑑、薬、非常食などが入ったこの雑嚢に、原は手帳と鉛筆を入れておくことを忘れなかった。それが、原爆文学の名作「夏の花」を生むことになる。
被爆翌日から原は自分が見たものを手帳にメモしていき、それをもとに秋から冬にかけて「原子爆弾」と題する小説を書く。GHQの検閲を恐れてこれを改題したのが「夏の花」である。
広島平和記念資料館に寄託されている手帳の現物を数年前に見せてもらった。縦13センチ幅7センチの手帳に、カタカナ+漢字、横書きで、12ページにわたって書かれている。
詩人でもあった原の文章は、悲惨な光景が描かれているにもかかわらず、切り詰められたぎりぎりの表現に独特の美しさがあり、まるで叙事詩のようだ。
描写に徹し、自分自身の心情を書いた部分は少ないが、原爆投下とそれに続く数日間が「夏の花」を書かせるに至ったことがわかる文章がある。
〈我ハ奇蹟的ニ無傷ナリシモ、コハ今後生キノビテコノ有様ヲツタヘヨト天ノ命ナランカ〉
最愛の妻を亡くした後、自分も死を考えていた原は、原爆の惨禍を書き残すために生き、被爆の5年半後に鉄道自殺を遂げるのである。