洞窟ダイバーはエベレスト登山より命を落とす 女性洞窟ダイバーが綴る圧倒的探検ノンフィクション

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イントゥ・ザ・プラネット

『イントゥ・ザ・プラネット』

著者
ジル・ハイナース [著]/村井 理子 [訳]
出版社
新潮社
ジャンル
歴史・地理/旅行
ISBN
9784105072513
発売日
2022/01/14
価格
2,420円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

対立するスパイラルが生む圧倒的な探検ノンフィクション

[レビュアー] 高野秀行(作家)

高野秀行・評「対立するスパイラルが生む圧倒的な探検ノンフィクション」

「ありえないほど美しく、とてつもなく恐ろしい」という副題どおりの本である。どのページを開いても二つの相反する要素が、まるでDNAの二重螺旋のように緊張感のある強靱な物語を形成している。

 最初の二重螺旋は「洞窟」と「水中」だ。私は大学探検部時代にケイビング(洞窟探検)をやっていたので、普通の人よりは洞窟に詳しい。洞窟は真っ暗闇であり、無数の通路が枝分かれしているから、道に迷いやすいし、仲間とはぐれることもよくある。また、極狭の通路に頭から突っ込んだものの体がひっかかって動けなくなることもしょっちゅうだ。視界がきかずぬるぬるした場所が多いので、滑落して怪我をすることもある。そういうトラブルが起きたとき、ケイビングでは「時間をとって落ち着いて対処する」ことが常識とされている。洞窟は天候が悪化することもなく、気温は一定で寒すぎることもない。洞窟最大の長所は「時間に追われないこと」なのだ。

 ところが、「水中」となれば、時間との勝負になる。帰り道を見失ったり、体がひっかかったりしている間にもボンベの酸素がどんどん失われていくのだ。つまり、ケイビングとダイビングは相容れない行為であり、それを同時に行う洞窟ダイビングは、ほとんどマラソンで全力疾走しろとか夜中に川下りをしろという無茶に近い。

 洞窟ダイビングでさらに恐ろしいのは深く潜水すること。百メートル以上も潜るときがあるというから驚きだ。深く潜れば、水面に戻るとき、減圧症(潜水病)を避けるため、ゆっくりと浮上しなければならない。酸素が足りなくなったり低体温症になったりしたとき、一刻も早く浮上したいのだが、それができない。この両方とも致命的な負のスパイラルは恐ろしすぎる。

 実際、洞窟ダイバーの死亡者は驚くほど多い。これまで海底洞窟を探検して命を落とした人はエベレストで命を落とした人数を上回るという。先鋭的登山家より洞窟ダイバーの方がおそらく死亡率は高いだろう。世界一危険なスポーツと言っても過言ではない。

 次の相反する二重螺旋は――私には意外だったが――野外における強靱な肉体及び精神力と、最先端のハイテク機器の二刀流。水中洞窟は多様性に富んでいる。ジャングルのど真ん中に洞窟があるときは、重い装備を背負って森を歩き、猛烈な暑さや蚊、サソリ、毒ヘビなどに脅かされる。カナダのような寒い海では死ぬほど体が冷える。オールラウンドの冒険家としての体力と気力が要求されるのだ。

 その一方で、長く深く潜るためには、リブリーザーという複雑な生命維持装置を筆頭に多数のハイテク機材を駆使する必要があるという。ご存じの通り、精密な電子機器はちょっとした故障や不具合をよく起こす。操作が複雑なので、ダイバーも勘違いや表示の読み取りミスをしやすい。そして、それらの不具合やちょっとしたミスは「死」に直結する。この辺り、洞窟ダイバーたちはまるで予算と環境が劣悪な中で活動する宇宙飛行士のように見える。

 しかし、本書で最大の二重螺旋は著者であるジルの人生と探検のぶつかり合いだろう。ジルはカリスマ性がある人ではなく、むしろ「生きづらい人」だった。子どもの頃は女の子たちのカジュアルな会話が苦手でずっと苛められていたというし、命がけの探検を重ねてようやく一流の探検家の仲間入りをしたと思えば、今度はマッチョな洞窟ダイバー社会から激しく嫉妬される。著名ダイバーである夫のオマケのように扱われるばかりか、夫本人からも快く思われなくなる。探検を頑張れば愛情を失う。未知の世界への飽くなき探求とままならない人生が、常に彼女の中でせめぎ合っているのだ。

 これらいくつもの対立するスパイラルが寄り集まり、津波のように読者を圧倒するのは、南極で氷山の水中洞窟を探査する場面だろう。むちゃくちゃ荒れた海、極度に冷たい水、次々と崩壊する氷山、消える脱出口……。いや、この冒険行ほど読んでいて背筋が凍るものは珍しい。ここだけでも読む価値がある。

 一体なぜ、ジルはここまでして危険な探検をくり返すのか? それは水中洞窟そのものが美しいからではないと思う。人間が命がけで誰も見たことのない場所にたどりついたとき、その未知の世界が美しく感じられるのではないか。水中洞窟がありえないほど美しいのは、そこがとてつもなく恐ろしいからではないか。二律背反的なスパイラルに彩られた本書を読むと、そう思えてならないのである。

新潮社 波
2022年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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