何のために生きているのか。いつかその答えが出せる日が来るまで――あさの あつこ『烈風ただなか』文庫巻末解説【解説:藤田香織】
レビュー
『烈風ただなか』
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何のために生きているのか。いつかその答えが出せる日が来るまで――あさの あつこ『烈風ただなか』文庫巻末解説【解説:藤田香織】
[レビュアー] 藤田香織(書評家・評論家)
■角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
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■あさの あつこ『烈風ただなか』
■あさの あつこ『烈風ただなか』文庫巻末解説
解説
藤田 香織(書評家)
二〇二二年の現在、「あなたは何のために生きているのか」という問いに、明確な答えを持っている人は、果たしてどれくらいいるのだろう。
個人的には、これがまったく思いつかない。十代のころから漠然と考えているのに、未だ断言できずにいる。四十にして惑わず、五十にして天命を知る。と言われても、いやもう孔子の時代とは全然違うわけですし、と逃げ腰になるばかりだ。生きる意味問題を、人生における最難題だと感じている人は、意外と多いのではないだろうか。
〈何のために学ぶか。何のために剣を握るか。何のために心身を鍛えるか。何のために生きるか……〉
本書『烈風ただなか』の主人公・鳥羽新吾もその惑いの、まさしくただなかにいる。
十万石と決して大藩ではないものの、気候は穏やかで、水利に恵まれ自然の恩恵を受けた富裕な石久。その郷校である薫風館に通う新吾には、親しく付き合う、ふたりの学友がいる。
ひとりは代々普請方を務める間宮家の嫡男・弘太郎。背丈もあり肩幅も腰回りもがっしり太い大兵で、磊落で屈託がない明朗な性質。正力町の組屋敷に、両親と妹・菊沙の一家四人で暮らしている。鳥羽家は禄高三百石の上士、間宮家は三十石足らずの下士と違いはあるものの共に武家だが、もうひとりの栄太は領地の北外れに位置する島崖村の名主の息子=農民の子だ。栄太は薫風館始まって以来の俊才で、半年ほど前から、町見術を極めるために、国費で江戸へ遊学している。
新吾と異なり、弘太郎と栄太は、「何のために生きるか」という難問への答えを既に持っていた。家族のために薫風館を辞め進むべき道を決めた弘太郎。瘦せた窮地ゆえ貧しい村を救うため、既にその道を歩き始めている栄太。対して新吾は自分の「先」がまだ見えていない。〈栄太の想いも、弘太郎の決意も人と繫がっている。故郷の地とそこに生きる人々に、家族に繫がっている。なのに、我が足元から続く道、その先はどこに通じているのか、見当がつかない〉。この新吾の心もとなさが、本書の大きな読みどころになっていくのだ。
薫風館で、机を並べ、剣を交わし、同じ道を歩いてきた時が終わり、それぞれが違う方向へと分かれていく。もう三人で同じ道は進めない。一人で己の道を歩み出す時がきていた。
しかし、そんな新吾たちの前に、足を止めざるを得ない謎が立ちはだかる。
この構成が心憎いほど巧い。
新吾の心のなかには、実父・兵馬之介への不信があり、どこか〈得体の知れぬ相手〉だと思い続けている。自分と母・依子を捨て、巴という女と暮らしているとだけの理由ではない。〈何を考えているのか、どう生きているのか、底が見通せない〉という。
最終的に、その理由は明らかになるが、兵馬之介が隠し続けてきた真実が語られるまでの不穏な空気のたちこめ方が素晴らしく嫌らしい。
初めて顔を合わせた弘太郎の許嫁・八千代が、「鳥羽新吾」という名前を聞いた途端に、悲鳴を上げて走り去る。なぜそんな無礼な振る舞いを? 弘太郎の妹・菊沙が、向かいに住む森原のご隠居が血塗れの死体を見たという。しかし死体はどこにも見つからない。本当なのか。であれば、なぜ消えたのか。半年ほど前に江戸へ上ったばかりの栄太が、急遽呼び戻される。主命だとしたら、まだ学生にすぎない栄太になぜ? 死体を見たと言っていた森原のご隠居が川で溺れ死ぬ。尋常でない死が二つ続き、新吾はどうにも気にかかる──。
そこへ、兵馬之介が薫風館帰りの新吾に、自宅屋敷近くで声をかけてくるのだ。二人で近くの店へ行き、酒を交わすことになる。兵馬之介は、弘太郎が暮らす組屋敷がある正力町で何があったか、知っていることを全て話せと迫り、こう告げる。
「このままだと、また、死人が出る」
ゾクリとするひと言だ。あぁやはり、兵馬之介は、只者ではないのだなと伝わってくる。何気ないようで、とんでもない凄味がある。
加えて、これほどたたみかけた謎の真相も衝撃的で、個人的には「あぁ……」と、つい目を伏せてしまった。「それ」を息子に明かす兵馬之介の気持ち。「わたしは嫌です」と言い返す新吾の気持ち。令和の世では同様のケースは想像し難い状況にもかかわらず、どちらの気持ちも「わかる」気がする、してしまう。
〈父はいつも霧の向こうにいる。そこにいるはずなのに、確とは見通せない。曖昧で、ぼやけていて、正体というものが摑めない。この男は何者なのだ〉と新吾が思っていた兵馬之介を包んでいた霧が薄れていき、その姿が見えたような気にもなる。
その果てに兵馬之介はこうも言うのだ。〈おまえはおまえの道を行くがよい。父はそれを許す〉。ずっと陽のあたらぬ場所で、霧をまとって生きてきた父が、おまえは光の下で生きよと進むべき道を決めかねていた息子に告げ、もう二度と逢うことはないと背を向け立ち去るのだ。残酷であり壮絶であり凄まじく、けれど震えるほどの優しさではないか。この後に続く、巴と依子の言葉にも、深い深い感慨が残る。
もちろん、御承知の上で手にとられた方も多いと思うが、本書は二〇一七年に刊行された『薫風ただなか』(KADOKAWA→角川文庫)の続編でもある。前作では、新吾が上士の子弟のみが通う藩学から薫風館へ転学してきた理由や、今も尾を引く石久の内紛が詳しく描かれていた。新吾が弘太郎やその家族をなぜこれほど大切に思うのか。栄太はなぜ、これほどまでに二人が「必ず来てくれる」と信じて、いや、わかっていたのか。
十四歳だった頃から、新吾は弘太郎と栄太を〈こいつらなら、裏切らない〉と確信できていた。〈信じられるのだ。弘太郎なら、栄太なら、新吾がもがいていれば飛んできてくれる。見殺しには絶対にしない。新吾もそうだ。弘太郎に、栄太に何かあれば駆け付ける。駆け付けて、力の限り戦う。そういう相手に出会え、耕作の苦労を知り、学問を深めていける。夢のようだと新吾は息を吐く。存分に息を吸って、吐く〉。そう描かれていた関係性が二年経っても変わらずにあることに胸が熱くなる。
あさのあつこ氏は、二〇〇六年に刊行された『弥勒の月』(光文社→光文社文庫)以来、既に四十冊を超える時代小説を世に送り出してきた。が、今、このページを開いてくださっている方のなかには『バッテリー』(教育画劇→角川文庫、角川つばさ文庫)や「白兎」シリーズ(講談社→角川文庫)から著者の読者ではあるけれど、時代小説にはまだちょっと苦手意識がある人もおられるかもしれない。
そうした方は、ぜひ『火群のごとく』(文藝春秋→文春文庫)から、『飛雲のごとく』(文藝春秋)、『舞風のごとく』(同)と連なる「小舞藩」シリーズを読んでみて欲しい。こちらは石久よりさらに小さな六万石の小藩が舞台となっていて、新吾たちと同じ年ごろの、やはり三人の少年を中心に描かれている。そこには明確な身分格差があり、最新刊の『舞風のごとく』で新里正近(林弥)と山坂半四郎は、友人関係にあった筆頭家老の息子である樫井透馬に近習として召し抱えられる。一生、越えることは不可能な主と従の関係性。にもかかわらず、正近は〈透馬といると、身分というものを、それこそ奇妙なぐらいきれいに忘れられた。武家として分限を弁える律は、骨身に染みているにも拘らず零れ落ちてしまうのだ〉という。
あり得ない、と思う。かつて新吾が通っていた藩学ですらあの有様だったじゃないかと思う。けれどその一方で、乞うように正近や新吾たちのような関係性を欲している自分にも気付く。
決められた枠は、今の社会にもある。人を分かち、上下に隔てる格差もある。悔しさや虚しさや、やるせなさを嚙みしめるばかりだと思う日もある。でも、だけど──。
あさのあつこの小説に共通して描かれているのは、そうした枠を踏み越えていく決意と覚悟ではないだろうか。
激しい風に吹かれる日がある。暖かな光差す日がある。より強い風に立ちすくむ日もあるなかで、少しずつ背負えるものが増えていく。広く見渡せるようになる。踏み出すことを躊躇わず、遠くまで行けるようになる。
何のために生きているのか。今は思いつかなくても、いつかその答えが出せる日が来るまで、生きたい、生きていこうと強く思う。
■作品紹介・あらすじ
烈風ただなか
著者 あさの あつこ
定価: 770円(本体700円+税)
発売日:2022年01月21日
己が斬るのは公儀か藩か、それとも父か? 熱い「青春時代小説」!
江戸時代中期、十五万石を超える富裕な石久藩。鳥羽新吾は上士の息子でありながら、藩校から郷校「薫風館」に転学、自由な気風を謳歌していた。その「薫風館」で陰謀が起きる。かつての学友たちが斬殺され、その真相を知った学友だった瀬島が自害。中老である彼の父も罷職となった。真実を知るはずの新吾の父は、事件後何事もなかったかのように妾宅に住み、そして二年が過ぎようとしていた。新吾は元服を迎え、親友の栄太は江戸へ遊学し同じく同輩の弘太郎には嫁取りの話が来ている。ゆっくりと時が進んでいたある日、弘太郎の近所で太刀傷の死体を見たと証言した隠居の老人が事故死する。直後、弘太郎から紹介された許嫁・八千代が新吾の姓「鳥羽」に奇妙な反応を見せ、江戸の栄太には突然の帰郷命令が出て……。闇に埋もれたかつての陰謀から、再び不穏な気配がわき起こる。熱い「青春時代小説」! (解説:藤田香織)
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