復刊された僥倖に浸りたい函に入った筋金入りの映画愛

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復刊された僥倖に浸りたい函に入った筋金入りの映画愛

[レビュアー] 碓井広義(メディア文化評論家)

 和田誠が4ページの映画エッセイの連載を始めたのは、雑誌『キネマ旬報』の1973年10月上旬号だ。初回の冒頭で「映画に出てきた名セリフ、名文句を記憶の中から掘り起こして、ついでに絵を描いていこうと思う」と宣言。連載のタイトルにしたセリフが登場する、映画『ジョルスン物語』について書いている。劇中でラリイ・パークスが扮した歌手、アル・ジョルスンが言ったセリフを直訳すれば、「あなたがたはまだ何も聞いていない」だった。しかし、字幕スーパーでは「お楽しみはこれからだ」。和田はこれを「名意訳」として記憶に留めたのだ。

 次の10月下旬号の目玉はジョン・フォード特集だった。和田は表紙も担当し、ディレクターズ・チェアに座り、葉巻を手にしたフォード監督の肖像を描いている。また自分のページもすべてフォード作品で埋めた。たとえば「私はクレメンタインという名前が大好きです」というセリフは、『荒野の決闘』でヘンリイ・フォンダが演じたワイアット・アープの言葉だ。腰に拳銃を帯びたフォンダの立像は、シンプルな線だけで描写されているが、そこには表情があり、声さえも聞こえてきそうだ。

 現在のように多くの映画をDVDで観られる時代ではない。和田が自分の記憶だけを頼りに文章を書き、絵を描いていたことに驚く。記憶力もさることながら、中学1年生で映画ファンになろうと「決心」した、筋金入りの映画愛があればこそだろう。この連載は読者の支持を集め、二十数年も続いた。

 そして最初の単行本が出版されたのが75年だ。120本近くの映画が並ぶが、表紙は『サンセット大通り』のグロリア・スワンソン。セリフはサイレント映画時代の大女優として言う、「セリフなんか要らないわ。私たちには顔があったのよ」だ。長い間、古書でしか入手できなかったこの本が今、「愛蔵版」として復刊されたことは僥倖でしかない。

新潮社 週刊新潮
2022年3月3日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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