『「新しさ」の日本思想史』
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新しさはなぜ胡散臭いのか
[レビュアー] 林操(コラムニスト)
古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。どこに新しいものがございましょう─なんて鶴田浩二の古いボヤきを、なんだか新しく思い出してしまうのは、西田知己の『「新しさ」の日本思想史』を読んだから。著者は江戸文化が専門だという日本史の研究者ながら、古代から中世、近代までの長い時間軸、法令に文芸、宗教に芸能、その他いろいろの幅広い分野にわたり、新と古の捉え方がどれほど大きく変わってきたかを教えてくれる。
堯舜禹の善政が理想という儒教や、釈迦の入滅後1500年以降は末法という仏教が幅を利かせる間、つまり古こそが理想だった時代には、乱れて堕ちた嘆かわしい現実を指すのが新だった。その固定観念が反転し始めるのは、ようやく江戸期以降で、続く平和や進む技術という新しさにより個人や社会のあれこれが目に見えて改善されだしてから。この“新しいことはいいことだ”革命はさらに明治の御一新と昭和の大敗戦で加速したわけです。
で、維新からバブル景気までの坂の上の雲への上昇局面が終わり、そこから続く坂の下の糞への転落局面にあるニッポンでは、さて新しさはどう受け止められているのやら。そう考えたときに口をついて出たのが鶴田の「傷だらけの人生」だったんですが、頭に浮かんだ話はもうひとつあって、それは老親が大阪で暮らす知り合いの嘆き節。年寄りのコロナ対策に手の回らない姥捨て市政、楢山節府政のどこが維新なのかと。