『山椒魚・遙拝隊長 他七篇』
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
敗残の亡霊が軍服姿に反応し男の思考を狂わせる
[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「制服」です
***
「岡崎悠一(三十二歳)は気が狂っている。ふだんは割合おとなしくしているが、それでも、いまなお戦争が続いていると錯覚して、自分は以前のとおり軍人だと感違いしている」
井伏鱒二が敗戦の五年後に発表した「遙拝隊長」はそんな設定の物語である。悠一は「発作」が起こると「誰彼に見さかいなく号令を浴びせかける」。「伏せえ」と言ったらそのとおりにしないと怒り出す。逃げると「ぶった斬るぞお」とおどされる。
悠一の姿には、井伏が大戦時に徴用された際に出会った軍人の記憶が重ねられている。従軍文学者たちをマレー半島に送り込む「アフリカ丸」船上でのこと。輸送指揮官は彼らに気合を入れるべく「ぐずぐず云う者は、ぶった斬るぞ」と恫喝、仕上げに「東方遙拝」の号令をかけるのだった(井伏『徴用中のこと』を参照)。
軍国主義の権化が、敗残の亡霊となった姿を描くのみではない。悠一を取り巻く人々の反応を活写して、悠一がいわば村全体が生み出し、育んだ存在であったことも暗示する。そこに悲喜劇的な味わいが醸し出される。
リアルなのは悠一の軍服に対する反応だ。「払いさげの兵隊服」を着た青年が村の外からやってきたりすると大変である。号令に従わない青年とのあいだで「反抗するか、ばかやろう」と派手な殴り合いになってしまう。
制服には元来、人の思考を深く狂わせる何かがひそんでいるのではないかと思わせる一幕である。