『幕末社会』
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幕末社会 須田努著
[レビュアー] 成田龍一(日本女子大教授)
◆人々の暮らす場に焦点
江戸時代末期−幕末といったとき、私たちがイメージするのは、維新の前夜−幕藩体制が崩れゆく過程であり、桜田門外の変や大政奉還、あるいは尊王攘夷派の志士たちの横行といった激動する光景であろう。教科書に記されてきたのも、そうした政治史、それも中央の政局史であった。このとき著者が描こうとするのは、人びとが生き、生活する幕末社会の様相であり、そこでの人びとの想いである。
著者は、江戸時代の背骨を「武威」と「仁政」とし、人びとが暮らす場である「在地社会」に照準を定めつつ、天保期・一八三〇年ころから「内憂外患」と呼ばれる事態が動き出すとする。ペリー来航への反応、百姓一揆をはじめとする多くの事例が紹介され、コレラや地震にも言及する。ここで太い柱となるのは、将来が不安な若者たちがときには暴力をも伴って動き出すことである。無宿・博徒となり、あるいは「悪党」とよばれ、集団での盗みや放火を伴う姿であった。若者の遊興が、在地社会の秩序を内側から崩すことも指摘される。
他方、「在地社会」を焦点化することは、そこでの社会的なネットワークを浮き彫りにし、社会の厚みに着目することとなった。剣術熱があり、国学や蘭学を学ぶ人びとがおり、それらを介したさまざまなつながりがみられた。この視角から、当初は武士たちの動きであり、政治的な運動と認識されがちな尊王攘夷も、豪農たちが参画する広がりで記される。また、天狗党や戊辰戦争も地域の秩序を揺るがす出来事として描かれる。さらに、博徒・国定忠治や、一揆にかかわった三浦命助・菅野八郎、尊王攘夷の女性・松尾多勢子ら「魅力的な個人」の足跡も、重ね書きされた。
かくして、本書は「十九世紀前半の日本の社会」としての「幕末社会」を、人びとの生きかたの集積として描き出す。近年、歴史像が大きく書き換えられようとしている。背後には、世界史認識の転換とあわせ、歴史教育からの問題提起があるが、本書もまたそうした流れのなかにある。
(岩波新書・1034円)
1959年生まれ。明治大教授・社会文化史。『吉田松陰の時代』など。
◆もう1冊
高橋敏著『江戸のコレラ騒動』(角川ソフィア文庫)。幕末にあったコレラ狂乱の中の人びとの心性を活写。