作家・朱野帰子さんが紹介 中年の危機を生き延びるための文庫3選

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中年の危機を生き延びるための文庫たち

[レビュアー] 朱野帰子(作家)

吉高由里子主演でテレビドラマ化された小説『わたし、定時で帰ります。』の作者・朱野帰子さんが中年の危機を生き延びるために必要な新潮文庫3冊を紹介します。

朱野帰子・評「中年の危機を生き延びるための文庫たち」

 四十代になると楽になるよー。

 そんなエッセイを読むたびに「そう?」と思う自分がいる。現在四十二歳。しんどさしかない。夜一人で静かなリビングにいるときなんか、じっとしていられなくて、大声で叫んで暗い街を走り回りたくなる。四十代のみなさん、そんな気分にならない? 私だけ?

 そんな私が正気を保つために開く文庫本がある。まずは、日本を代表する臨床心理学者、河合隼雄の著書から『働きざかりの心理学』を。

 この本では働きざかりの定義を三十歳から四十代前半までとしている。この年代をカウンセリングした経験から書かれたこの本が刊行されたのは昭和五十六年。豊かになる一方の時代である。それでも働きざかりの悩みは深く、自殺率も高かったのだという。奥付を見ると「令和三年三月 三十刷」とある。時代を超えて必要とされてきた本なのだ。

 働きざかりが悩むのは、青年期の間に成し遂げておくべき課題を引きずったままにしているか、大人という重荷をのせられて青年期の頃の古傷が痛み出したからである、と河合隼雄は書いている。さらに中年になると、「いかに死ぬか」という問題が心の奥底で動きはじめるが、それを考えるとつらいので、多くの人は「もっとよりよく生きることはないか」と考えるそうだ。なるほど、四十代になると急にマッチョをめざす人が出てくるのはそういうわけなのね。私もリングフィットを始めちゃった……。

 だが、良い仕事をするためのカードが手元に全て揃うのも働きざかりの頃だ。最近、代表作は三十八歳で出る説を耳にした。言われてみれば、四十歳前後で「これぞ本領発揮」という作品を生み出す作家は多い。私が好きな安部公房が『砂の女』を発表したのも三十八歳だ。

 安部公房作品のなかでもとりわけ好きなのは六十歳の時に発表された『方舟さくら丸』。主人公は体重が九十八キロ。《豚》とか《もぐら》とか呼ばれている。彼はデパートの地下で行われている[見たことないもの売ります 家伝の宝物展示即売会]で出会った昆虫屋に、ユープケッチャという昆虫と[乗船券 生きのびるための切符]とを交換しないかと持ちかける。それは地下採石場跡の核シェルターに入ることができる券なのだという。米ソの冷戦下にあった当時の読者の心理は私にはわからないが、「認識不足だな、危機はそこまで迫っているんだ、新聞読まないんですか」という主人公の台詞にはゾクゾクさせられる。中年の危機を生き延びるための切符があるなら私も取引に応じたい。

 最後は、令和時代の文庫本へと、タイムマシンに乗ってひとっ飛び。といって、描かれるのは現代の日本ではなく、十八世紀のフランスはベルサイユなのだけど。

 吉川トリコの『ベルサイユのゆり マリー・アントワネットの花籠』は、『マリー・アントワネットの日記Rose』『マリー・アントワネットの日記Bleu』の外伝だ。マリー・アントワネットがギャル語で日記を書いていた、というぶっ飛んだ設定の『マリー・アントワネットの日記』シリーズは日記文学史上に残すべき快作だ。

 三十七歳でギロチンにかけられた王妃の近くにいた女性たちの過剰な愛を描いた百合文学が『ベルサイユのゆり』。語り手は革命の最中に虐殺されたランバル公妃、四十二歳。「いかに死ぬか」を悩む前に多くの人が死んじゃっていた時代の女性だが、この小説のランバル公妃はしぶとい。死後も幽霊となって、王妃ゆかりの人たちのもとへ押しかける。「ある一定の年齢を超えたあたりから、あまり人目を気にしなくなることってございません?」とか、「近所のコンビニに行くだけだから部屋着でもいいか、なんならノーメイクでも、上にコート着ちゃえばいっそノーブラでも?!」とか、中年あるあるを連発しつつ、「もう死んでますしなにを言われたって傷つきません」と、生前よりタフレディになったことをアピールするランバル公妃。彼女のように死んだつもりで、好きに生きるのもいいかもしれない。

 三冊の文庫本を本棚に戻して、とりあえずプロテインでも買いに行くか、と私は思った。

※[私の好きな新潮文庫]中年の危機を生き延びるための文庫たち――朱野帰子 「波」2022年4月号より

新潮社 波
2022年4月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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