『明治維新と噺家たちー江戸から東京への変転の中で』
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小咄に毛の生えたものが落語となるまで
[レビュアー] 立川談四楼(落語家)
維新後、落語家の地位が向上する。明治を代表する三遊派の初代三遊亭圓朝と柳派の初代談洲楼燕枝(初代柳亭燕枝)のお陰だ。因みに私の芸名は談洲楼にあやかっている。
彼らが政治家、財界人、文化人とつきあい、それが地位向上につながるのだが、圓朝は渋沢栄一の懇意を得て、度々別荘に招かれた他、随行して静岡の徳川慶喜を訪ねている。
現在では圓朝が高名なため、芸の上でも燕枝とは距離があり、もしや敵対していたのではと心配だったが、その交遊のエピソードに頬が緩んだ。また、歌舞伎に関しては、談洲楼が九代目市川團十郎から贈られた名であることにも一目置いていた。
圓朝の作った噺に『眞景累ヶ淵』がある。文明開化の明治、幽霊は否定され、圓朝は幽霊を信じるのは神経病と高座で言いつつ、その神経に眞景の字を当て、幽霊にリアリティを持たせたのだ。その経緯は承知していたが近年あやふやとなり、今回本書で確かめ、ホッとしている。
女性落語家の存在にビックリした。燕枝の弟子・若柳燕嬢(本名麻生たま)だ。女性落語家第一号で、自由民権運動に身を投じ、活動家として演説をしていた女子がいかにして落語家になったか、どんなネタを演じたか等、弟子にした燕枝の心理ともども面白い。燕嬢を乗せた人力車が警察官に呼び止められ、さあそこで燕嬢が警察官に切った啖呵の小気味いいのなんの。
フランス人が書いた噺家・寄席の案内書も興味が尽きない。領事館の一等書記官ジュール・アダンのもので、挿絵とともに明治中頃の落語界の様子が分かり、当時の寄席の数が二四三カ所であるとフランス人が教えてくれるのだ。
入門時の、楽屋の古老の言を思い出す。「小咄に毛の生えたようなものが、明治中頃に今の形になるんだ。マクラを振って噺に入り、展開があってストンと落ちがくる形にだ」