『あの胸が岬のように遠かった 河野裕子との青春』永田和宏著(新潮社)

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あの胸が岬のように遠かった

『あの胸が岬のように遠かった』

著者
永田 和宏 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784103326427
発売日
2022/03/24
価格
1,870円(税込)

書籍情報:openBD

『あの胸が岬のように遠かった 河野裕子との青春』永田和宏著(新潮社)

[レビュアー] 堀川惠子(ノンフィクション作家)

秘密 亡き妻に書かされ

 亡き妻の遺(のこ)した日記を読む勇気はあるか。しかもそこに別の男への思慕が綴(つづ)られていたら――。亡き妻とは戦後を代表する歌人、河野裕子(享年64)。その未公開日記と往復書簡300通が残されていた。同じ歌人である夫は畏れを抱きつつも過ぎし日を辿(たど)り始める。

 全存在をかけて誰かを愛し、愛された軌跡を辿る営みに、自身の生い立ちから見つめ直す作業は必須だろう。そこに100ページ近くが割かれる。幼い頃に病死した母、確執の絶えぬ義母、愛人の存在を隠せぬ父。大切なピースの欠けた家庭で「何を言っても大丈夫という信頼感」を得られぬまま成長する孤独。読み手に小休止を促す淡い水色の栞(しおり)が、著者の原風景である琵琶湖、そして少年が湛(たた)えた涙を思わせる。

 妻となる人との運命的な出会い。人生で初めて自分を全開できる相手を得た喜び。その体験を、美智子さまを伴侶とされた上皇陛下の一首に重ねあわせるとは、宮中歌会始の選者を務める著者ならではだ。

 熱く性急な日々に、謎めいたタイトルの意味が明らかになると読者のほうが赤面する。純愛物語かと思いきや、中絶、自殺未遂、妻の才能への嫉妬。お互いに秘密にしてきた出来事が次々とつまびらかにされる。そこまで書くか、なんたる勇気。だが途中で気づく、これは著者一人で書いているのではない。妻が生前、確信的に用意していた材料で、夫が書かされている。であれば真剣勝負も当然か。錘(おもり)を持つ一語一語が深く胸に沈む。その重みが何とも心地よい。言葉に生きた夫婦の共犯関係を確信する。

 妻との凄絶(せいぜつ)な最期の日々を綴った前作『歌に私は泣くだらう』。「書く作業は苦しかった」と著者はいう。そして今作。激しく求めあった遠い青春の日々に、誰よりも深く愛された証を味わい尽くしたのではないか。十年一日、「わが知らぬさびしさの日々」を生きた夫は、世話女房からの無言の感謝状を手にしたように思う。

読売新聞
2022年6月17日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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