命の糧は、隷属の証……食料経済を軸にしたファンタジー小説 上橋菜穂子による新たなる代表作

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香君 上 西から来た少女

『香君 上 西から来た少女』

著者
上橋 菜穂子 [著]
出版社
文藝春秋
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784163915159
発売日
2022/03/24
価格
1,870円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

香君 下 遥かな道

『香君 下 遥かな道』

著者
上橋 菜穂子 [著]
出版社
文藝春秋
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784163915166
発売日
2022/03/24
価格
1,870円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

[本の森 SF・ファンタジー]『香君』上橋菜穂子

[レビュアー] 北村浩子(フリーアナウンサー・ライター)

 上橋菜穂子の最新刊『香君』(文藝春秋)が描く世界の中心に在るのは、奇跡の稲だ。やせた土地でも立派に育ち、年に何度も収穫できる。病虫害にも強く、味もいい。遥か昔、〈神郷〉から降臨した〈香君〉によってウマール帝国にもたらされた宝の稲、オアレ稲。この恩恵を存分に生かし、帝国は幾つもの国を従え長く繁栄を誇ってきた。

 しかし、属国の一つ、西カンタル藩王国のかつての王、ケルアーンはオアレ稲の作付けを拒んだ。オアレ稲には麦や蕎麦などの穀物を枯らす強い力があった。土の性質を変えてしまうのだ。しかも、次の収穫のためには帝国からの種籾の支給を待たなければならなかった。命の糧は、隷属の証。ケルアーンは、オアレ稲に依存し後戻りできなくなってしまうことを恐れ、飢饉のときでさえその意志を貫いた。

 物語は、失脚した彼の孫娘であるアイシャが、現国王に殺されそうになるところから始まる。彼女を救ったのは、皇帝の部下である視察官のマシュウだった。彼はアイシャに、オアレ稲と他の穀物との共存を密かに模索していることを打ち明ける。帝国への反逆にもなりかねない行為だったが、危険を冒してでもオアレ稲の謎を解かねばならない理由が、マシュウにはあった。

 アイシャは人並み外れた嗅覚を持っている。彼女は幼い頃から、生き物から放たれる香りを〈言葉のように意味をもつもの〉として感じ、その声を聞いてきた。動物、植物、人。たくさんの「香りの声」が耳に届く。悲鳴や苦痛を訴えるものもあり、つらいと感じるときもあった。でもそのつらさを分かち合える人は、ひとりとしていなかった。

 一方、香君のオリエも、別のつらさを抱えていた。香りで万象を知る活神・香君は転生を繰り返しているとされ、オリエは13歳のときに生まれ変わりとして香君に「なった」。しかし自分が神だとはまったく思えず、人々を欺いているのではないかという不安が常に胸にあった。

 オリエ、アイシャ、マシュウ。三人はそれぞれの道義を携え、チームとしてオアレ稲の謎を探ってゆく。害虫オオヨマの大量発生、オオヨマを捕食するバッタ、狼狽える施政者たち。アイシャが聞く「植物たちの声」は人々を導く希望の道になるのか――。

 ミステリーや冒険小説の味わいもあり、長さがあるのが嬉しくなってしまう。そしてなんと言っても――これは上橋作品を読むときいつも感じることだけれど――政治や経済のシステム、地形や土地柄といった、物語世界の仕組みが実に緻密に考えられ、創り上げられていることに感嘆せずにはいられない(インタビューで「プロットを立てない」と話されているのを読んで驚いてしまった)。物語を生きる人物たちの幸福を祈りたくなる温かい心を呼び覚ましてくれる力、それが上橋作品には必ずある。

新潮社 小説新潮
2022年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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