『東京ミルクものがたり 東京酪農乳業 史跡を巡るガイドブック』前田浩史/矢澤好幸編著(農山漁村文化協会)

レビュー

4
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東京ミルクものがたり

『東京ミルクものがたり』

著者
前田浩史 [著、編集]/矢澤好幸 [著、編集]
出版社
農山漁村文化協会
ジャンル
歴史・地理/日本歴史
ISBN
9784540211812
発売日
2022/04/08
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

『東京ミルクものがたり 東京酪農乳業 史跡を巡るガイドブック』前田浩史/矢澤好幸編著(農山漁村文化協会)

[レビュアー] 金子拓(歴史学者・東京大准教授)

都心発祥 酪農跡を散策

 一昨年急逝した坪内祐三氏の遺作『玉電松原物語』の冒頭、世田谷区赤堤にあった四谷軒牧場が登場する。氏の通った小学校の近くにあって、その頃(昭和40年頃)の世田谷がいかに田舎だったのかを示す象徴的な存在として懐かしく回想されている。東京の区立郷土館・博物館を訪れると、昔ここにも牧場があったと紹介されているのを目にすることがあるが、本書を読んで、かつて東京に牧場が設けられたのは自然のなりゆきだったのだと腑(ふ)に落ちた。

 近代日本における酪農乳業は東京からはじまった。明治維新後来日した外国人や政府高官の屋敷は、かつて武家屋敷のあった土地を利用した。そこに住んだ外国人たちの牛乳需要に応えるため、空いた武家屋敷に牧場が設けられる。殺菌技術が未熟で、搾った生乳を腐敗しない新鮮なうちに消費者に届ける必要があったからだ。外国人居留地に近い築地生まれの芥川龍之介の実父は牧場経営者であった。赤坂の日枝神社周辺で東京の酪農は誕生したが、当時の酪農乳業はいわゆる武士の商売で、かつ政府が後押しした新産業であり、士族たちが主な経営者であったためだ。しかし近代社会の進展により東京に押し寄せる都市化・宅地化の波は牧場を郊外に追いやり、都心から牧場は消えた。土地だけでなく、衛生面や臭気の問題も大きかった。

 本書は、これら都心部にあった酪農乳業の史跡(各所に説明板が設置されている)を丁寧に解説し、史跡をめぐる散策コースを紹介するなかで、東京における酪農の歴史を教えてくれる。

 爽やかに晴れた大型連休の一日、本書を片手に、四谷軒牧場跡ほか紹介された史跡数箇所を訪れた。いまやどこもビルや住宅が建ちならび、牧場があった痕跡すらうかがえないが、本書を読んでその場に立つと、脳裏にはおのずと牧場の幻影が広がり、歴史の地層に触れた気持ちになった。ちなみに告白すれば、評者は牛乳が大の苦手である(反面乳製品は大好きである)。

読売新聞
2022年6月24日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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