マンガだから表現できたルネサンスの文化的空間 ヤマザキマリ『リ・アルティジャーニ :ルネサンス画家職人伝』

レビュー

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リ・アルティジャーニ

『リ・アルティジャーニ』

著者
ヤマザキマリ [著]
出版社
新潮社
ジャンル
芸術・生活/コミックス・劇画
ISBN
9784106023019
発売日
2022/06/30
価格
2,200円(税込)

書籍情報:openBD

マンガだから表現できたルネサンスの文化的空間

[レビュアー] 青柳正規(ギリシア・ローマ考古学者)

青柳正規・評「マンガだから表現できたルネサンスの文化的空間」

 ルネサンス時代のイタリアにおいて、なぜあれほどの芸術文化が開花したのだろうか。黒死病蔓延による宗教権力の後退、ビザンチン帝国の滅亡(1453年)、そしてイスラム圏からの古代ギリシャ語文献の流入、いくつもの勢力に分割されていたイタリアの政治勢力、さまざまな要因が指摘されている。ヤマザキマリさんは芸術文化の展開にとって何が重要かをより具体的に指摘する。

 本書の章立てはフィレンツェ、ナポリ、ヴェネツィアという都市の名前によっている。ルネサンス時代、これらの名称は都市を指すだけでなく国そのものを表わしていた。したがって当時の生地、出身地、郷土は現在よりもはるかに重要な意味をもち、縁故として、絆としてあるいは頸木としてそれぞれの市民に作用した。いわゆるカンパニリズモ(郷土愛、郷土主義)である。ヤマザキさんの指示によってとり・みきさんが描いた都市の景観図は、15世紀の状態を想定しながら克明にそしてこだわりをもって表現されていることからもカンパニリズモがイタリア人に通底していることは明らかである。したがって「イタリア人」でもあるヤマザキさんにとってあまりにも当たり前なのでわざわざ言及するまでもなかったのだろうか。そしてヴェロッキオ工房で僅かに触れられているレオナルド・ダ・ヴィンチはこの通底条件からは外れるように思われるので、いつか光を当ててもらえればさらにカンパニリズモを掘り下げることになるのでは、というのは読者のわがままだろうか。

 本書がヴァザーリの『美術家列伝』によっていることはいうまでもないが、ヴァザーリ自身は「美術家」という言葉を使っているわけではない。直訳すると『卓越した画家、彫刻家、建築家の列伝』という書名には、価値評価が含意されている「美術家」という言葉はない。画家ではなく画家職人を選択し、アルティスティ(芸術家、美術家)ではなくアルティジャーニ(職人)を用いているのは、先入観としての価値評価を避けようとするヤマザキさんの潔癖症もしくは正義感によっているのだろう。しかも師匠、工房、地域と密接な関係をもつ職人を標榜することによって、またカンパニリズモよりもさらに本質的な「場」に焦点を絞り、そこでの師弟関係、競争、憧憬、受容、接触などの動的エネルギーを提示することによって磁場が生まれることを示唆している。ヤマザキさんがカンパニリズモに言及しなかった理由である。

 もう一つ見落としてはならない指摘が本書には含まれている。ワイン作りにとってのテロワール(強いて訳すなら生育環境)に相当する製作環境あるいは枠組みである。地域、時代、文化的な伝統と系譜、気質、景観、気候などさまざまな条件が相まって形成される芸術文化の枠組みの中で社会的、政治的、文化的な活動が活発となり、枠組みから溢れ出ようとするとき、新たな動きや新しい提案が生まれる。枠組みがない場合、動きや提案は拡散して具体化する前に消え去ってしまう。神聖ローマ帝国や王政下にあったフランスに比べて小国が割拠していたイタリアではこの枠組みが形成されやすく、しかも認識されやすかった。枠組みを前提とする充実感がアルティジャーニの製作意欲を刺激したのである。その残影が今も反映しているイタリアと、文化のあり方そのものが異なる日本とを行き来しているヤマザキさんだからこそ両者を比較し客観的に眺めることができるのだろう。しかし、ここでもまたヤマザキさんは枠組みに直接言及することはない。個々のアルティジャーノが作り出す作品そのものによって溢れんばかりの状態にある枠組みを示唆するだけである。

 言葉だけでは表現しにくい文化的枠組みを写実的に表現できたのはマンガというメディアだからである。私たちが理解しにくく実感のもちにくいイタリア・ルネサンス社会の濃密な文化的空間が本書には提示されている。しかもヴァザーリのいくつかの誤記が訂正されており、最近の知見が織り込まれている。もちろんヤマザキさんの推測や創作が加えられている箇所もある。具体的に実証的に本書で表現された15世紀イタリアのルネサンス社会は、文化を考えるときいずれの地域においてもまたいつの時代においても比較し考慮しなければならない対象である。その意味で本書は私たちに芸術文化を考える際の新たな指標を提示してくれたのである。だからだろうか、本書が対象とする時代と同じころ、わが国では五山文学や能楽などの室町文化が栄えていたという。比較してみたくなった。

新潮社 波
2022年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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