「人智を超越する存在の姫と、最底辺で足掻く男たちの戦国活劇」に作家・花村萬月が込めた想い

エッセイ

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

姫

『姫』

著者
花村, 万月, 1955-
出版社
光文社
ISBN
9784334914714
価格
2,420円(税込)

書籍情報:openBD

「人智を超越する存在の姫と、最底辺で足掻く男たちの戦国活劇」に作家・花村萬月が込めた想い

[レビュアー] 花村萬月(作家)

 御神木が哭(な)いていた―某小説家の某作品の冒頭部分だ。自分が小説家になるなどとは思ってもいなかったころだった。御神木とそれに附随するあれこれがどうなっていくのかを念頭に頁を繰った。けれど冒頭以降、御神木なんて一切無関係で、四分の三ほど読んでカンフーの達人である主人公が万全の設備を誇る最新のキャンピングカーの中でクリストファー・クロス(昭和ですね)の曲を聴きながら服を着替えるという御神木云々とはあまりにかけ離れた場違いな場面で、ついに耐えきれなくなって本を閉じた。

 御神木が哭いていた―という冒頭が、小説家を生業(なりわい)とするようになっても脳裏にこびりついていた。いつしか冒頭に『御神木が哭いていた』という一文をおいて一作書いてやるという野望? を抱くようになった。

 御神木が哭いていた―という導入部が数十年を経ても頭にこびりついて離れなかったのは、それが私にある鮮やかなヴィジョンを見せていたからだ。私の頭のなかでは、ずっと御神木が哭いていた。いつしか御神木を薙(な)ぎ倒すほどの途轍もない嵐と、それに附随する嫋(たお)やかな姫の姿が自在に動きだした。人智を超越し、御神木=神を禍々(まがまが)しきものに変えるほどの力を持つ存在である姫と、最底辺で足掻く男たちの物語が、吸血鬼伝説に絡めて鮮やかに立ち昇ってきたのだ。

 御神木が哭いていた―せいで、担当編集者のTが青森は戸来村(へらいむら)、雨中の迷ヶ平(まよがたい)まで取材に行かされ、土産に戸来村のTシャツまで買わされた。もちろん私自身が契利斯督(キリスト)の墓にまで出向いて取材を重ねたかったのだが、私はある病で免疫を喪失していたので旅行はおろか自室から出ることさえ許されず、幽閉身分のままベッドに横たわり、この宇宙の始原からを描き出す壮大なる虚構に専念した(させられた)。

 御神木が哭いていた―のではない。泣いていたのは外界と遮断されていたこの私だった。そのおかげで、この無窮の時を描く作品ができあがったのだが―。作多数。

光文社 小説宝石
2022年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

光文社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク