分野史を超えた日本史叙述は可能か――『日本流通史』『日本近代社会史』の刊行によせて

対談・鼎談

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日本流通史

『日本流通史』

著者
満薗 勇 [著]
出版社
有斐閣
ジャンル
社会科学/経営
ISBN
9784641165861
発売日
2021/12/13
価格
3,960円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

日本近代社会史

『日本近代社会史』

著者
松沢 裕作 [著]
出版社
有斐閣
ジャンル
歴史・地理/日本歴史
ISBN
9784641174757
発売日
2022/04/12
価格
2,640円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

分野史を超えた日本史叙述は可能か――『日本流通史』『日本近代社会史』の刊行によせて

[文] 有斐閣

 流通のありようを大きく変えてきた小売業の歴史的発展をたどる『日本流通史――小売業の近現代』(2021年12月刊)、江戸から明治への激動期の日本社会の全体像を描く『日本近代社会史――社会集団と市場から読み解く1868-1914』(2022年4月刊)。研究分野が近く,問題意識の重なる著書をそれぞれ刊行された満薗勇先生,松沢裕作先生のお二人に対談を行っていただきました。

『日本近代社会史』を読んで

満薗 今回、松沢さんのご本を読ませていただいて、近代日本の「社会史」とついている教科書みたいなものはこれまでなかったので、本当にすごい本が出たというか、とても意義深い本が出たと思っています。こういう本が、自分が学部生や院生の頃にあればよかったと、まず思いました。私自身も社会史にはもともと強い関心があります。ただ、日本近代史の場合、社会史はとてもとらえどころがないと思っていて、何をやれば社会史になるのかというところからして、よくわからずに、今まできていたと認識しています。

 この本の序章の第1節は「社会史とは」となっていて、社会史には、大きく分けて、「残余の歴史」か「全体史」か、という2つのとらえ方があると書いてあります。どちらにせよ、日本近代史を考えようとすると、とらえどころがなかったと思います。外枠というか、枠組みも見えない状況です。その中で、この本は、全体史のほうへ社会史をとらえる視点を置いているということですね。

 そのうえで、思いのほか日本経済史にかかわるトピックが多く扱われていることもあって、経済史っぽいなとも思いました。それは、副題にある「社会集団と市場から読み解く」という松沢社会史のとらえ方によるところが大きいんだろうと思います。

 社会集団というのも、現代あるいは近代から始めようとすると、この本のように並べるという発想は出てこないんじゃないかと思います。本に書いてある通り、近世の側から近代を見ているので、社会集団という形で、行政村の中の大字(おおあざ)とか、同業組合とか、その他の諸々の集団が横並びに並んでいます。近世身分制社会のとらえ方をベースに、村とか町(ちょう)とか仲間とか、あるいは身分的周縁とか、そういった単位の上に成り立っていた社会が、近代にどう変化していくのかという視点で見ているから、こうなるんだと思います。近代になって新しく入ってきたものも、近代になってから社会集団がどう変わるかということとの関係の中でとらえるところが、この本の特徴だと思います。だから、こういう並べ方が成り立つんだろうなと思いました。

 他方、市場のほうも、経済史のようなとらえ方ではありません。成長や発展といった観点からではなく、社会集団同士を結び合わせるものとしてとらえています。市場が海で、家とか、それぞれの社会集団が小舟のようなものとして、そこに浮かんでいる、海と船の関係みたいなことを、この本では描いています。社会の側から見ているから、こういうとらえ方になるのだろうと思いました。

 全体史が日本近代史において成り立つとすると、松沢さんが描いたような近世社会そのものが、まず全体性をもっていて、そこに議論の起点があるから、近代社会史を全体史として、このようなかたちで描けるんだなと思いました。本の中では、政治的国家と市民社会の分離、あるいは公私の分離という形で提示されている見方ですね。

 先ほど、この本は思いのほか日本経済史に近いと述べましたが、経済史というのは、普通、歴史学と経済学の両方にまたがるものと理解されています。経済史研究の現状を考えたとき、経済学との対話をどうすべきかというのは、方法とかアプローチの面で、はっきりとわかりやすく課題として直面せざるをえないので、みんな意識していますし、そういうことを考えないといけないということも、かなり共有されていると思います。

 それも大事ですが、他方で、歴史学との対話がこれまで十分に成り立ってきたか、あるいは自然とできてきているかと言うと、必ずしもそうではないと思っています。それは、歴史学の中の日本史あるいは日本近代史において、経済史がどう位置づけられるのか、あるいは経済史研究の成果がどういうふうに吸収されているのかということを考えると、十分に対話がうまくいってるわけではありません。

 こういう状況の中で、歴史学のほうから言うと、経済史、政治史、社会史といった専門分化した分野史と、どういうふうにつなぎ合わせて歴史の全体像を理解していくかと考えたとき、この社会史の枠組みが近代史を考えるときのひとつの手がかりになるだろうと思います。これに沿って、多くの人がいろいろなことを考えていくと、歴史学と経済史の対話ということも含めて、分野史を総合するような議論が今後かなり進んでいくのではないかと思いました。

『日本流通史』を読んで

松沢 ありがとうございます。

 私も満薗さんの本を読んだ感想から始めたいと思います。満薗さんの本は最初の出だしが秀逸で、「プロローグ」にある「いまこの本を手にとっているということは……」というのは、すごく魅力的でした。それが、この本の性格をよく表していると思います。

 コンビニでペットボトル飲料を買おうとして冷蔵ケースを開いたら、その中に満薗さんが立っていて、「いまここで買い物をしているということは……」と言って、そのまま冷蔵ケースの中に引きずり込まれるという像が、なんかもう、リアルに目に浮かぶんです。満薗さんの表情も含めて(笑)。そして、そのまま引き込まれると、めくるめく流通史の世界がコンビニの裏に広がっていて、そこを延々と満薗さんに連れ回されるという、ダンテの『神曲』みたいな感じですかね。そういうイメージがありました。

 つまり満薗さんの本は現代史なんですよね。非常に強く現代に規定されていて、私の本が現代から書いていないことと好対照だと思います。最終的には現代を生きる私たちのあり方を理解するにはどうすればいいのかということに、かなり強く貫かれた歴史叙述ではないかと思いました。

 その中で経営学的、あるいは流通論的な説明、例えばホールセール・リテール比率とか延期と投機の理論とか、社会科学的というか流通論的なツールが非常にたくさん使われています。しかし、それで一本の筋を通そうとしているというわけではなくて、個別の現象を、その都度理解するためのツールとして使われているんですよね。

 ちょっと先走ると、一面では非常に社会科学志向であるように見えるんだけど、実際にはとても個別の現象、実際に日本列島の社会で起きている、ある特定の現象を説明するためのツールとして使われています。その点で、古い言い方をすると、法則定立的科学か個性記述的かで言うと、個性記述的です。個別のものを説明したい。まさに「日本型流通」に力点を置いているわけなので、いま、私たちが生きている日本の社会がどのようにできあがったのかの歴史を書いている本だと思いました。

 さらに、これは、あとでまた、あらためてやりとりしたいと思いますが、もしかすると歴史記述の中には、大きな違いとして「現代史」と、「現代史じゃないもの」、すなわち「非現代史」と呼べるものがあるんじゃないかと、満薗さんの本を読んで、考えましたね。

 例えば、普通は古代史とか中世史とかを研究していれば、現代史とはいわない。じゃあ、明治時代を研究しているほうが時系列的に現代の問題に近づいてくるのかと言うと、そういう話でもありません。構えの問題として、現代史ではない歴史があるのではないかということですね。ただし、現代史ではない歴史というのは、私たちが生きている現在と無関係に起きるわけでも、書かれるわけでもありません。そのあたりについては、私にも当然、それなりのこだわりがあります。そのこだわり方に違いがあるんじゃないかというのは、あとであらためて議論したいと思います。

安丸通俗道徳論を超えて

満薗 ありがとうございます。

 それでは、今回、せっかくの機会なので、松沢さんの本について、直接少しうかがってみたいと思います。

 まず、この本では近代の社会集団の特徴を「抜け駆け可能な社会集団」だととらえています。それは、公的な支えを失った相互監視のみによる弱い規律のもとで、集団の利害に反してでも自己の利益を貫徹しようとする主体の存在をゆるすような社会集団で、近代社会とはそういう社会集団によって編成されている社会なのだというとらえ方ですよね。

 他方で、松沢さんは2018年のご著書『生きづらい明治社会』(岩波ジュニア新書)で「通俗道徳のわな」ということを提示されていました。これは、「がんばれば成功する」という、それ自体としては正しい徳目の実践が、かえって社会の矛盾をみえにくいものにしてしまったり、矛盾の解決に向かう営為を引き出しにくいものにしてしまったりするというとらえ方のことでした。

 これも、すごく魅力的な社会の捉え方だったと思いますが、それが、この本の「抜け駆け可能な社会集団」と、どう関係しているのでしょうか。この本では明示的に説明がなかったと思いますし、「通俗道徳」という言葉自体を使われていないと思うんです。そのあたりの関係について、どういうことをお考えになっていたのでしょうか。

松沢 これは、実は、2020年度の歴史学研究会の大会報告(1)において、私の中で、少し視点の転換があったんですね。

 安丸良夫さんの「通俗道徳」論、つまり、「勤勉、倹約、謙譲、孝行」などの徳目を実践すれば、富や幸福が手に入るのだという信念が近代日本で広くいきわたっていたという話は、この本の枠組みの中で位置づけることはできるのだけれども、たぶん、もう一回り外に「抜け駆け可能な社会集団」という枠があるというんですかね。つまり、抜け駆け可能性みたいなものが、通俗道徳的なものを支える、より大きな背景としてあり、通俗道徳実践というのは真面目な人は真面目にやるんだけど、抜け駆け可能な状態においては、もはやそれを「道徳」と呼んでいいのかどうかもあやしいような頑張り方の方向も、成功すれば価値あるものとして評価されるというのが、そのときの論文の内容です。

 そうすると、「通俗道徳」概念だけで筋を通すことはできないと思ったんです。それで、「通俗道徳」という概念は、この本では抜いて書いてみました。そういう点で言うと、私は今、安丸良夫さんの通俗道徳論から半歩踏み出したいというところにいるので、それが、ここに表れていると自分では思っています。

満薗 安丸さんの通俗道徳論は、通俗道徳が近世からあるという話だったと思います。でも、松沢さんとしては、それを近代の問題として引き取って考えています。そうすると、社会の編成原理の転換みたいなことかもしれないですが、そのことと安丸さんの通俗道徳論から半歩踏み出すときの扱う時代の射程みたいなことは、どういうようなイメージでしょうか。

松沢 もちろん、安丸さんの通俗道徳論でも近世の話をしていますが、やっぱり「日本の近代化と民衆思想」という論文名(2)からわかる通り、本来の射程は近代だと思うんです。なぜ安丸さんの通俗道徳論が、近世の話題として、特に「日本の近代化と民衆思想」という論文そのものは近世の話題として書かれているのかと言うと、それは近世に発生したものだからというのもありますが、あの本の「あとがき」で、安丸さんは、通俗道徳の「最良質の部分」と言っているように、通俗道徳的実践に込められている人間の主体化のエネルギーみたいなことに軸足があるからですね。安丸さんは、近代というのが非常に抑圧的な時代であることを見つめながらも、それに先立つ近世後期にそれを生み出した人間的なエネルギーは大事にしたいんだと思います。だから、初発の時点でもっていた、そういうポテンシャルみたいなものを評価したいというのが、安丸さんにはあります。

 だけど、私の場合、もうちょっと社会の全体構造みたいなものを書こうとするときに、安丸さんが最良質の部分と言ったものだけじゃなく、むしろ、どちらかと言うと、最悪の部分を含めて見ていかなきゃいけないところがあると思うんです。

 そうすると、安丸さんも書いている通り、通俗道徳という実践のあり方が全面化するのは近代だろうと思います。近世の段階では、家没落の脅威の中でとりうる選択肢の一つではあったけれども、それが強制されるというか、あらかじめ組み込まれていたりするようなものではなかった。それが全面的になったときには、自分が道徳的な人間であろうがなかろうが、とにかくそれをやってみるしかないという状況に置かれるわけですよね。

 そこのところが、安丸さんと半分重なって半分ずれているところなんじゃないかと思っています。

現代史と非現代史

満薗 少し話題を変えて、次に、ご本の中で言うと、最後のほうに出てくる労働組合のことと修養主義の問題についてうかがいたいと思います。ここでも通俗道徳という言葉は使われていませんが、ここでの修養主義というのも、抜け駆け可能な社会集団的な社会構造の枠内でしかないと、とらえられているのでしょうか。

松沢 それは、第一次大戦後の社会への移行期にかかわる話なので、この本の中では明確に答えていないと思います。修養主義というのが、一面で通俗道徳的規範の中から抜け駆け可能な方向ではない方向のチャンネルへ流し込もうとした努力であるということは言えると思います。けれども、これは、それこそ筒井清忠さんをはじめ、戦間期の修養主義、教養主義と修養主義の親和性みたいなことを主張する人たちの議論(3)につながってくる話ですが、結局、体制変革の力を持たなかったわけです。また別のチャンネルに流し込まれていくという話が続くんじゃないかと思います。こういうのは、私よりも満薗さんの専門なんではあるまいかという感じですね。

満薗 その見通しと言うか、理解というのが、現代史と非現代史みたいな話の論点にもかかわってくると思います。松沢さんの本はそういう意味では非現代史ですが、帯の文言を使うと「現代日本社会の原型」だと言うわけです。その評価は、現代を踏まえた評価だと思うんです。構えの問題としては違いますが、そんなに違わないとも思います。抜け駆け可能という話と通俗道徳の話、そして、その評価が、この時代の描き方を規定していると思うんです。そういう意味では、あんまり変わらないのではないでしょうか。

松沢 そこなんですけど、現代史と非現代史ということで言うと、どこまで研究対象と現代の事象に1対1の対応があるかということなんだと思います。私は歴史を書くときに現在を想起させる機能を持たせるつもりで書いています。本の一節を見ると、私たちの社会にある何事かを思い出さざるをえないという書き方にはなっているし、昔のことなので現在とは関係ありませんという意味で歴史を書いてるわけではないです。それは一見して明らかだと思うんですけど(笑)。私がこれまで書いてきたものは、すべてそうです。

 それに対して、満薗さんの本は、小売業という、私たちが今、モノを手に入れている仕組みが、いかに成り立っているかという点で、描いている対象と私たちが生きている時代の対象とが、まさに1対1の対応関係にあるのだと思います。私の歴史叙述は現在にたどり着かず、途中で終わってもいい叙述ですが、満薗さんの本はたぶん途中で終わってはいけないものだと思うんですよ。ただ、それは、いずれも今を生きる現在の私たちから出発しているという点で言えば、とにかくそれとは切り離しますという態度とは違うよね。

満薗 私の話で言うと、私のもともとの研究テーマである小売業や消費社会といった問題は、そもそも歴史学あるいは日本近代史では、あまり研究がありませんでした。研究がないものをどうやって研究していくかというとき、現在との関係を直接考えていかざるをえませんでした。今の問題から出発して、論点を立てて、どういう意味があるのかを説明していくことにしないと、論文が書けなかったということが、初発の問題としてはあります。

 最近、「あなたはどうして歴史を研究しているんですか」と言われたら、「いまがどうしてこうなっているのかを知りたいんです」と答えるようにしています。そういう発想がすごく強くなっているんです。それは、今の社会は、ものすごく流動的で変化が激しいし、10年前と今とでは全然違うという、現状のほうの変化の激しさが過去を見る見方をどんどん変えていっているからです。そういう状況に、自分がどうやって対応していくのかに追いかけ回されているというか、追い立てられて仕事をしているという感じが強くなっていると思います。そのようなところに投げ込まれてしまっている感じが、私の場合はします。

松沢 投げ込まれている感じなんですか。

満薗 そうですね。日本近代史なりのしっかりとした枠組みがあって、その中で議論していればいいとはならないので、自分の研究していることにどういう意味があるのかとか、手を変え品を変え、現状との関係で説明していかないといけない感じです。

松沢 私の場合は、もともとの研究テーマが膨大な研究蓄積のあるところをやっているわけですよね。それこそ、自分が対象としている時代が終わったところから先行研究が始まるとも言えます。1920年代・30年代くらい、法制史の中田薫とか、マルクス経済学者たちの日本資本主義論争あたりから研究史が始まるわけなので、先行研究自体が満薗さんの研究している時代よりも古かったりします。先行研究自体がすごく時代の中で書き換えられていき、それをたどっていく作業を、論文を書く前にまず延々とやるわけです。それを踏まえて、今、私がここにいて、さて元の研究対象に立ち返ったときに自分の研究対象はどうなのかということになるので、振り回されるというよりも延々と続いている中の「最後にいる私」みたいな感じから出発することになるんですよ。そうすると、自然と距離ができてしまうというか、振り回されるというより押しつぶされるという感じに近いですかね。そういうところがあるのかなと思いました。

経済学と私たちのねじれた関係

松沢 満薗さんがお話になった経済学、より広く言って社会科学の理論みたいなものと歴史記述の関係に、論点を移したいと思います。我々は二人とも文学部で日本史学を勉強して、経済学部で教育をすることになったわけですけど、経済学と私たち――私たちというのは私と満薗さんね――の関係を考えてみた場合、結構ねじれてるんじゃないかという気がします。

 一見すると、満薗さんのほうがより経済史家に見えると思うんです。実際、できあがった本を見ても、満薗さんの本は経済史の本で、私のほうは社会史の本です。ただ、私の本も、考えてみると、経済史であるようにも見えるという感じですよね。

 対象と距離があって現在を説明する、つまり、まさにこれを説明したいんだという欲望の強さで言うと、私のほうが若干、希薄なんです。私の研究対象が日本近代である必然性は、実はそれほど高くないかもしれなくて、別の時代の別の地域の研究をしていても、もしかするといいのかもしれません。それが、いま生きている私たちの生き方をなんらかの形で想起させる力を持っているとすれば、それでよいのかもしれないと思うことがあるんですよ。そうした場合に、どっちかと言うと時空を超えてある種の普遍的なものを見出そうとする社会科学への親和性は、私の本のほうが、より強いのかもしれません。満薗さんのほうが、より時間と場所にこだわった個別の説明をしたいという欲望は強いかもしれないと思います。どちらが経済学寄りなのかは結構ねじれているんじゃないかと思うんです。どうですかね。

満薗 その場合の経済学というのは、どういうことでしょうか。

 私が勤務している北海道大学で言うと、経済と経営が両方、そして会計も経済学部の中に入っています。経済学の中も、いわゆる近代経済学もあるし、経済思想もあるし、私たちのような経済史もあります。こうした一番外側にある全体を含む広い意味での経済学のことでしょうか。そうだとすると、松沢さんの方が普遍的ですよね。

松沢 そうそう。

満薗 そこはそうですよね。松沢さんはたぶん、そこまでいかないと満足しないというか、そこまで書かないと現在を想起させられない、という構えなんじゃないですかね。

松沢 満足しないというか、何に満足するかが違うということだと思うんだけど(笑)。逆に、これだと不満な人だっているわけです。例えば続きが読みたいとか、なんでそこで終わるんだとか思うだろうと思うんです。

満薗 それはみんな思うでしょうね。

「経済学部」で教える

満薗 ところで、この本は、もともと松沢さんの講義ノートを基にされているんですよね。松沢さんの科目としての「社会史」は、学部の中でどういう位置づけにあるんですか。

松沢 経済学部の中に基本科目というのがあって、10分野のうち3分野以上にわたり、合計12単位以上をとらなくちゃいけない。「社会史」はそこに配置されていて、「ミクロ経済学中級」とか「日本経済史」とかと並んでいる科目ですね。だから、重要な科目なんです。

満薗 だから、こういう本になったということでしょうか。言い換えると、たとえば文学部で松沢さんが「社会史」という授業をやるとしたら、どうなりますか。

松沢 文学部で「社会史」という授業をやるとすると、もっと個別のトピックでしゃべっていると思いますね。こんなに、いろいろなことをしゃべらないと思います。あと、さっきの普遍志向の話で言うと、ここまで普遍志向にならないだろうと思います。

満薗 そうすると全体史じゃなくなるという感じですか。

松沢 そうですね。「全体につながっていますよ」くらいで終わる可能性は高いですね。

 昔、山口啓二さんの話を聞いたとき、永原慶二さんの話になったんですよ。山口さんは、名古屋大学に移られるまで、長らく東京大学史料編纂所におられました。永原慶二さんも、最初は史料編纂所にいて、割と若いうちに一橋大学の経済学部に移られます。それで、山口さんが、「経済学部にでも勤めなきゃ、ああいう永原さんみたいな本(4)は書かないよ」と言っていたのが、とても印象に残っています。割と、それは強く意識していましたね。

満薗 文学部の日本史だと、そもそも「概論」とか「概説」といった講義はほとんどないですよね。

松沢 ないです。

満薗 ないというのは、基本的には高校生までで一通りの勉強はすませているという前提があるからだと思うんです。だから、講義で個別の問題とか特殊な問題とかを扱ってもよいというか、そういう学問の教育体系の中でできていることだと思うんです。それで言うと、経済学部にある「社会史」というものが、ある程度形を整えておかないといけないというのは、それが日本史ではないというか、日本史を学んだ人向けにしゃべってないからなのかなと思います。

松沢 ああ、それはありますよね。私の講義では「日本史で受験してないからついていけません」と言う学生さんがしばしばいます。だから、講義で話すときは、中学校の教科書の歴史分野は義務教育なので、それを踏まえていればわかるはずというレベルを心がけています。そうした学生さんとか留学生も含め、「もしわからなかったら、中学校の参考書なりをもう一度ご覧になってはどうでしょうか」という言い方はしますね。

満薗 それで私がさっき言っていた、日本近代史叙述の中にいろんな分野史をどういうふうにつなぎ合わせていくのかという課題が、文学部じゃないからこそ、そういうことを考えるという側面が強くあるんじゃないかと、松沢さんの本を読んだり、今回話してみて思ったわけです。そういう意味でもねじれているのかもしれません。

松沢 いや、他人事みたいに言ってるけど、満薗さんもあるんじゃないですか(笑)。

満薗 そうだと思います。

流通史とは?

松沢 話題は変わるんですけど、一つ、うかがってもいいですか。それは、流通史という枠組みが何なのかということです。

 これは、すごく満薗さんに特徴的で、それこそこの本は、満薗さんの中の社会史的部分が非常に強く出ている流通史の本だと思います。ある時期に流通史と言った場合に、インフラ整備とかかわらせて鉄道網の整備とか、どこからどこまでどうやってものを送れるようになったとかといった、産業史の側から見ている流通史というのがあったと思います。生産の場からモノがどう運ばれるかということに関心を持つ流通史が20~30年くらい前にありました。例えば、高村直助さんたちの社会資本の論集(5)とか『道と川の近代』(6)とかです。

 満薗さんは、それらとは反対に、人々が使う「モノ」というところから始めるわけですよね。生産から始まる流通史じゃない流通史を書かれたことについて何か思うところはありますか。

満薗 今、おっしゃったのは、研究史上で言うと、「商品流通史」と、我々は後から勝手に呼んでいるものです。商品ごとに、例えば鉄道ができたから流通のあり方が変わったと主張します。統計資料があって、それを使うと、かなり具体的に問題をつかまえられるわけです。あるいは、鉄道ができたけど実は船も活発だったとか、いろんな論点があって、重要なお仕事だったと思います。

 ただ、あれは生産を起点に議論してきた日本資本主義史的な経済史の伝統を踏まえて出てくる研究潮流だったようにも思います。しかし私自身は、「消費社会って何だろう」とか、「今の社会って何だろう」とか、そういうところから関心が始まっているので、最終的には買うほうの側からとらえたいということなんです。そもそもの関心が少し違うのだと思います。

 私が学部生の頃、商品流通史の一方で百貨店の歴史研究が出始めました。百貨店の研究は経済史とか経営史とかではない、つまり文化史とか社会史とかの人たちが、学際的なアプローチを用いて、研究していました。私は、そちらが面白そうだと思っていたタイプなので、どちらかと言うと、そちらから入っています。でも、今回の本は、一応、産業史としてどうなのかということを考えています。文化史や社会史だけでは流通史を描き切れないと思っていました。

 初発からずっとそうなんですけど、これらを統合したような、経済史、経営史、文化史、社会史みたいなところを一緒に考えられるような問題として、小売業の話を追いかけています。商店街の取り組みなんかもそうで、具体的なモノの売り買いの場が見えるとか、商店の経営者や家族の姿が見えるとか、そちらのほうに面白みを感じています。松沢さんの見方に乗っかると、私は「残余の歴史」のほうから考えようとしていて、だけど残余じゃないぞということをなんとかして言いたい。そういう志向が強いです。

松沢 そうですね。

高校日本史との接点

満薗 さっき高校日本史の話を出しましたけど、松沢さんの本は、高校日本史の概説というか、日本史の教科書になるんじゃないかと思うんです。この本を高校生向けに書くと、高校の日本史教科書になるんじゃないかというイメージです。

 逆に言うと、高校の教科書があったから、こういう本がなかったんだと思います。

松沢 なるほどね。でも、高校の教科書は、この本のようには書かれていないですよね。

満薗 どちらかというと、高校の教科書は分野史を羅列的に並べるだけというイメージになっていますよね。

松沢 そうですね。

満薗 でも、「この本に一番近い本は?」と言われたら、私は高校教科書だろうと答えます。日本経済史にも近いんだけど、それよりは高校教科書のほうが近い。だから、高校の先生にも売り込むのは、どうですか。学習指導要領と違うじゃないかって怒られると思いますけど(笑)。分野史をまたいで、どういうふうに歴史を考えるかというときの手がかりという意味では、高校の先生はけっこう読んでくれるかもしれません。

松沢 それは私はいつも意識していることではあって、高校の先生は、一般書を書くときには想定読者として念頭にあります。

満薗 高校の教科書では羅列的に並んでいるものを、この本ではその連関を説明して書いています。そこのつなげ方とか、「時代を描くとはどういうことか」とか、さっき出した話で言うと、「分野史を超えた日本史叙述はどういうふうに可能なのか」とか、そういう問題に一つ、答えてくれる本じゃないかなと思います。

松沢 なるほどね。いや、考えもしなかった。

(2022年4月1日収録)

(1) 「日本近代形成期の集団と個人――家・村・窮民」2020年度歴史学研究会大会、全体会報告(2020年12月5日)。

(2) 安丸良夫「日本の近代化と民衆思想」上・下『日本史研究』78・79号、1965年(のちに、『日本の近代化と民衆思想』青木書店、1974年〈平凡社ライブラリー、1999年〉に所収)。

(3) 例えば、筒井清忠『日本型「教養」の運命――歴史社会学的考察』岩波現代文庫、2009年など。

(4) 永原慶二『日本経済史』岩波全書、1980年。

(5) 高村直助編『明治の産業発展と社会資本』ミネルヴァ書房、1997年。

(6) 高村直助編『海と川の近代』山川出版社、1996年。

有斐閣 書斎の窓
2022年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

有斐閣

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