早すぎた戦争改革 市民殺戮は避けられなかったのか

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

早すぎた戦争改革 市民殺戮は避けられなかったのか

[レビュアー] 篠原知存(ライター)

 一晩で10万人を超える死者を出した東京大空襲。史上最悪の無差別爆撃が行われるまでの経緯を米軍側の視点で描き出すノンフィクション。

 1945年3月10日の東京大空襲が、人口密集地へ大量の焼夷弾を投下する市民殺戮だったことは周知の事実だ。しかし、マリアナ諸島のB29部隊が前年秋に本土空襲を始めた当初の戦略は、軍事施設を標的にした高高度からの精密爆撃だった。なぜ方針は変わったのか。

 象徴的な場面が、本書の冒頭に描かれる指揮官交代。ヘイウッド・ハンセルからカーティス・ルメイへ。〈それは更迭であり、一八〇度の方向転換だった〉という。

 航空戦の黎明期、米陸軍航空隊戦術学校のリーダーたちは「ボマー(爆撃機)マフィア」と呼ばれていた。ハンセルもその一人。悪党っぽい異名とは裏腹に、彼らは先進的かつ道義的な思想を持っていた。

 精密爆撃によって戦略的急所を破壊し、敵国の戦争遂行能力を奪うことが勝利につながる。多数の民間人を殺す必要はない、と。

 戦時下の非戦闘員保護はいまでは国際社会の常識になったが、当時は違っていた。多くの将官は、絨毯爆撃で都市を壊滅させることが敵の士気を挫く早道だと考えた。イギリスは無差別爆撃を「士気爆撃」と呼んだ。ほかならぬ日本も中国の重慶で市街地への爆撃を繰り返していた。

 ピンポイント爆撃の実現にはさらに多くの歳月と誘導技術の革新が必要だった。B29で戦果を挙げられなかったボマーマフィアは更迭され、後任者は東京を焼き尽くした。

 著者は、執筆前に東京都江東区の「東京大空襲・戦災資料センター」を訪ねて心を揺さぶられたと記している。読後すぐに足を運んでみた。猛火に襲われた地域を示す地図や生き残った人々の証言、爆撃後の写真など、胸を締め付けられるような展示で、歴史の綾を知ると、切なさと哀しさがますます耐え難い。

新潮社 週刊新潮
2022年7月28日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク