『禅僧たちの生涯 唐代の禅』小川隆著(春秋社)

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禅僧たちの生涯

『禅僧たちの生涯』

著者
小川 隆 [著]
出版社
春秋社
ジャンル
哲学・宗教・心理学/仏教
ISBN
9784393138069
発売日
2022/04/13
価格
2,640円(税込)

書籍情報:openBD

『禅僧たちの生涯 唐代の禅』小川隆著(春秋社)

[レビュアー] 中島隆博(哲学者・東京大教授)

悟り忘れ 平常心目指す道

 禅が興った唐代に、禅僧たちはどのような生涯を送っていたのか。その具体的な姿がありありと浮かび上がってくるような論述である。まず禅僧になるには出家しなければならない。かつて鹿を射る猟師であった石鞏慧蔵(しゃっきょうえぞう)禅師は、馬祖道一(ばそどういつ)に「どうして自らを射ぬ?」と問われ、「射るべき客体としての自己などドコにも実在しない」ことを自ら悟ると、弓を棄(す)てて馬祖のもとで出家したという。

 しかし、出家してもすぐに僧侶になれるわけではない。国の認めた戒壇で受戒し、正式の戒律を受ける必要がある。ただ例外的に受戒を拒んだ者もいて、「生も死も同じことと知れた今、受戒に何の意味がございましょう?」と覚(さと)った石室高沙弥(せきしつこうしゃみ)のように、受戒の手前の沙弥に止(とど)まった人もいた。

 禅寺の重要な活動のひとつに、法堂での説法がある。しかし、考えてみれば、禅は「不立文字(ふりゅうもんじ)」「以心伝心」のように、ことばに依(よ)らず、心から心へ直接に伝えられる法が大事のはずである。それにもかかわらず、説法するのはなぜか。著者によれば、「説法とは、人のために、自分のなかの大切な何かを切り捨てる行為にほかならない」。したがって、翠巌(すいがん)禅師が「三十年来、一日として、諸君と語りあわぬ日は無かった。さあ、わしの眉毛はまだのこっておるだろうか?」と問うた時、誰も何も言えなかった。偽りの法を説くと、眉毛が抜け落ちるという信仰をもとに、説法すること自体が道を損なったのではないかという厳しい自問であったからだ。

 著者が強調するのは、唐代の禅僧が目指したのは、「凡」なる迷いを克服して「聖」なる悟りに至るのではなく、その「聖」なる悟りを忘れ去ってふつうに生きることである。悟りに感応して鳥が花を供えにくるようではまだまだで、悟りを忘れて鳥が供養に来なくなって、やっと本物に近づく。鈴木大拙も強調していた「平常心是道(びょうじょうしんぜどう)――ふだんのあたりまえの心が道である」を身をもって生きることが大事なのだ。唐代禅の遥(はる)かな呼びかけに「ハイ」と応えた渾身(こんしん)の一書である。

読売新聞
2022年7月22日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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