『両手にトカレフ』ブレイディみかこ著(ポプラ社)
[レビュアー] 鵜飼哲夫(読売新聞編集委員)
「存在しない」少女の苦悩
幼少期からデジタル技術に親しむ者を「Z世代」と呼ぶ時、この表現によって「存在しない者」とされ、傷つく若者がいる。小説の主人公である14歳のミアがそうだ。ガス代が値上がりしてからシャワーすら浴びていない少女の家は貧しく、スマホを持っていなかったからだ。
そんなミアが、自分と似た境遇を生きたカネコフミコの自伝を読み、「別の世界」に夢を抱くさまが描かれていくが、もどかしいほど明るい兆しはやってこない。男たちに翻弄(ほんろう)され、酒やドラッグに溺れ、生活力が皆無の母親は破綻していくばかり。ミアの表現力を認め、ラップの歌詞を書いてほしいと依頼する同級生ウィルなどいい奴(やつ)が登場するのに、少女は心を開けない。虐げられ、裏切られるばかりで、〈誰かを頼ったら、後でがっかりすることになる〉と知っているからである。
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮文庫)で、アイルランド人の配偶者との間にもうけた息子の目からイギリスの階級社会の問題を鮮烈に描いた著者は、読者が安易な同情でミアを見ることを拒絶するかのごとく、彼女に安っぽい救いを与えない。大切なのはシンパシーではなく、他人の靴をはいてみるエンパシー(共感)と『ぼくイエ』で記した著者は、ミアの置かれた過酷な現実を、「あなたたちは、こんなひどい靴を履いたことがありますか?」と言わんばかりに克明に描いていく。
だからこそ、ミアの見ていた鈍色(にびいろ)の世界が反転し、青空が広がるエピローグは心に迫る。
著者は福岡県の進学校時代、定期代を稼ぐためにアルバイトをしていたことを先生に咎(とが)められ、「嘘(うそ)つけ。そんな家庭は今時ない」と断定された。まるで自分を否定されたような経験だったと3年前、評者の取材に語っていた。〈存在しない者として扱われているのに、自分が存在しているのが恥ずかしかった〉というミアの思いは、作者の若き日の思いでもあったのだ。