『メランコリーの文化史 古代ギリシアから現代精神医学へ』 谷川多佳子著(講談社選書メチエ)

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メランコリーの文化史 古代ギリシアから現代精神医学へ

『メランコリーの文化史 古代ギリシアから現代精神医学へ』

著者
谷川 多佳子 [著]
出版社
講談社
ジャンル
歴史・地理/歴史総記
ISBN
9784065280140
発売日
2022/06/09
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

『メランコリーの文化史 古代ギリシアから現代精神医学へ』 谷川多佳子著(講談社選書メチエ)

[レビュアー] 森本あんり(神学者・東京女子大学長)

神学、占星学…「鬱」の系譜

 鬱(うつ)という字を書けますか? 画数の多い真っ黒なこの漢字は、近年のひらがな文の中でも大事にされている。「うつ」ではその重たさが伝わらないからだろう。

 本書によると、鬱(メランコリー)には古代ギリシア以来今日まで、不動の図像パターンがある。そういえば、ロダンの「考える人」と夏目漱石は、ほぼ同じ格好をしている。著者はこうして、古代から現代までさまざまな分野を横断してこの主題を一気に駆け抜ける。知的刺激に満ちた文化史の範例である。

 ヒポクラテス以来、鬱の説明は黒胆汁の過多で説明する体液説が主流だったが、これはビザンチンとアラビアを経て中世に環流する。中世神学では、鬱はこの世から魂を引き離す救済への準備と見なされたが、修道院では怠惰という罪にも数えられた。これに重ねられたのがバビロニア伝来の占星学で、とりわけ太陽から遠くて冷たく暗い土星は、鬱を引き起こし瞑想(めいそう)を誘う霊的な原因とされた。

 宗教改革期には、自らも憂鬱質だったデューラーが典型的なポーズの「メレンコリアI」を描いている。だがそこには、幾何学と透視図法という新しい要素が加わっている。遠近法の成立は、空間の概念を変質させ、世界を固定的な視点から見透かす近代的な「主体」の誕生を意味した。デカルトはこれを「見るのは精神であって、眼(め)ではない」と表現したが、鬱はここで神学から離れて心身問題の一つと捉えられていることがわかる。

 現代では、体液説や悪魔憑依(ひょうい)説などに代わり、鬱は精神医学の主題である。きっかけは何らかの喪失だが、本人はそれで何を失ったのかを意識できずにいることがある。フロイトによると、それは愛情対象の喪失で心に穴があいてしまい、そこから心的エネルギー(リビドー)がダダ漏れしている状態のことである。

 それにしても、メランコリーには知力が必要だ、というのは面白かった。鬱は、単なる不活発や悲しみではなく、知の実践である。つまり、世の中がこれだけ憂鬱なのは、社会が知的成熟を迎えたからだ――といいのだけど。

読売新聞
2022年8月5日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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