『大丈夫な人』
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<書評>『大丈夫な人』カン・ファギル 著
[レビュアー] 小山田浩子(作家)
◆世界の寄るべなさを痛感
作者のデビュー作を含む九篇を収めた短篇集だ。一作目の「湖−別の人」の語り手は、親友が暴行され瀕死(ひんし)で発見された湖へ親友の恋人「彼」と一緒に手がかりを探しに出かける。見目よく性格よく礼儀正しく人気者の彼の態度の隙間に感じる傲慢(ごうまん)さや残忍さ、反撃も逃亡もできないような周到な、思い過ごしかもと思わされるような微細な恐怖…事件の調査で、一見穏やかで美しい湖から多くの物が引き上げられる、が、湖底全てを把握することはできない。
「ニコラ幼稚園−貴い人」は有名幼稚園に子供を入園させようとする母親の話だ。美しい園舎、最良の教育、活躍する卒園児たち、入園申込みのため何日も列を作る親たち、子供の未来のため親にできること、最低限すべきこと絶対にすべきではないこと、それらの境目は容易に混濁する。
そのほか、婚約者とドライブ中の光景の不吉さに慄(おのの)く女性、奇妙な条件の格安シェアハウスに入居した女性、汚染され荒廃した都市に暮らす女性カップル、身分制度が残るインドから見えない格差が張り巡らされた韓国へ来た知人の遺品を受け取ろうとする男女…不気味な生き物も現れる。爪くらいの白い虫、異形の巨大鳩(はと)、村を埋め尽くす埃(ほこり)のような虫、毒や針で攻撃してくるわけでもないそれらの存在が、語り手たちから見える世界の寄るべなさ理不尽さを読者に痛感させる。
堅実な描写と鋭い感情の表現の積み重ねによって、告発できるほど明確ではない悪意、遍在しときに自分自身が内面化している規範や差別意識が描かれ、痛快な解決も癒(いや)される救いもないのにページをめくる指が止まらない。主体的に選び取れるものはいつもとても限られていてそれは弱者であればあるほど、それなのにともすれば全て自己責任だとみなされる世界に生きる不安は読者である我々にとってとても近しい、だから私もあなたも全然大丈夫じゃないのだが誰かから大丈夫? と聞かれたらおそらく大丈夫としか答えられない。わからないけど、でも多分、大丈夫。だから我々は本書を読むのだ。
(小山内園子訳、白水社・2200円)
1986年生まれ。韓国の作家。2012年、短編小説「部屋」でデビュー。
◆もう1冊
カン・ファギル著『別の人』(エトセトラブックス)。小山内園子訳。